「瞑想」カテゴリーアーカイブ

永遠なのは魂のみ

タントラで、瞑想する目的とされているいくつかの考え方があるので、それを紹介します。元はサンスクリット語のヨーガ・スートラと、日本語のタントラから引用しています。

全ては自分の中にある

今、生きているということは、滅び行く肉体への投資である。
人は、すぐに形や方法を求めるものである。しかし、それは永遠に自分の外側にあるものだ。
外にあるものを追い求めようとするから、自分が空虚に感じるのだ。
自分を空っぽだと思うから、さらに外側に何かを求めようとする。
それは、たとえば買い物であったり、旅であったり、特別な体験だったりする。

しかし、求めるものは外側にあるのだから、永遠に自分の中には入って来ない。

では、どうすればいいのか。
求めるものは、実は初めから自分の中にある。
そのことを信じて認めることによってのみ、欲しいものが手に入る。

信じ認めるためにはどうしたらいいのか。
ヨーガを実践せよ。瞑想せよ。真理を学べ。

どれを行っても良い。内側に求めようとする限り、それは正しい道である。

肉体の満足に溺れるな

人は肉体が語りかけてくる満足に溺れてしまう。
必要以上に食べ、必要以上に怒り、必要以上に泣く、それらはすべて肉体からの誘惑だ。

本当の魂は、そんなことを望んでいない。

人にはできない体験を望むな、喜ぶな。
特別な扱いをされることを望むな、喜ぶな。

どんな特別な体験をしても、どんな贅沢な食事をしても、どんなすばらしい扱いを受けても、いつかは物足りなくなる。肉体は新陳代謝する。だから、常に新しいものを手に入れようとする。
肉体が存在する限り、欲は生まれ続ける。

肉体は常に物足りないのだ。
肉体は、魂に空虚を感じさせ何かを手に入れさせようと誘惑する。

魂が物足りなさを感じるのは、魂が肉体に支配されているからだ。
満ち足りた気持ちを永遠に続けるには、肉体の満足から離れるしかない。肉体の誘惑、食べたい、人より贅沢がしたい、楽がしたい、それらを軽蔑し、貴方から切り離さなければならない。

肉体が贅沢を望む時、魂はそれを傍観し、肉体が誘惑していると思え。肉体が特別な扱いを望む時、魂はそれを傍観し、肉体が誘惑していると思え。

そう思える時が瞑想である。

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ヨーガ・瞑想が目指す『感情に支配されない』と性タントラ

オウム事件の死刑囚が移送され、死刑執行があるのではないかとささやかれています。昨日は、麻原の三女が「ある日突然、家族やよく知っている人が死刑囚になった。(加害者家族にとっても)死刑は怖い。死刑はやめて欲しい」という趣旨の話しがあったので、それを引用してFacebookに以下のように書きました。

ーーー
これは考えさせられるなぁ。
怒りをコントロールすることができない人には分からないかも知れない。
顔と名前を出して訴えていることを考えないとなぁ。
ーーー

殺人犯を擁護するのか! の攻撃が始まる

ヨガや瞑想をしている人に、いきなり「殺人犯の擁護するのか!」と言う人はいないと信じたいのですが、そう思う人はいるかもしれません。

Facebookでは、急に「加害者家族のことなど知ったことじゃない」という話しに流れていきます。「被害者家族の気持ちが分からないのか」と続きます。 僕は、死刑判決の被害者家族の追跡調査をすると、死刑が執行されると被害者家族が離散してしまう、被害者家族は大変なんです、と言う事実を書きました。 すると、「死刑を無くせと言うのか」と論調が死刑廃止論への攻撃に変わります。

考えなければならない、と言っているだけ

ヨーガ・スートラやタントラの中では、この議論を「愚かだ」といいます。

僕は、被害者家族も加害者家族も大変だ、考えなければならない、と言い続けているのに、慶応大学まで卒業している人が「加害者を守る法律がないのだから、守る必要がない」と言い出す始末。

さて、何が「愚か」なのでしょうか。
僕の話に反応して攻撃というか反論を繰り返す人たちは、善か悪かの二元論に囚われています。
つまり、「加害者家族のことを考えなければならない」と聞いたとたんに、「加害者を保護する」と思い込むのです。被害者が可哀想なのに、なぜ加害者を保護するのか、と考えたわけです。

しかし、僕は加害者家族を保護するとは言っていないのです。

事件当時子供だった三女が、「死刑は怖い、やめて」という気持ちがあるのは理解できると発言すると、「理解できる」=「保護・擁護する」と思い込む人たちがいるました。そして、自分が思うことに対して肯定か否定かということで相手を味方か敵かに二分してしまい攻撃してくるのです。

そう、これが感情に支配された二元論です。

僕も、他に僕に似た発言をする人も、皆、擁護すると言っていないのです。理解できる、ということだけなのです。それにもかかわらず、お前が加害者を擁護するなら、俺は反対で被害者は可哀想だから「死刑を支持する」という、全然違う方向へ話しが持って行かれます。

二元論が憎しみと不安を生む

世の中は、善か悪か、YesかNoかという二項対立でできているわけではありません。三女の話にしても、良いも悪いもなくて、これまで加害者家族というのは声を出してこなかったので、しかも実名顔出しで三女は声を上げた。その声を聞いて考えようということが、二元論でしか考えられない人は、敵か味方かという判断になってしまい、行動を開始してしまいます。

なぜ、そんな行動(他人を攻撃する)を始めてしまうのでしょうか。
それは、二元論で考えると心が不安定になるからです。

自分は正しいと思うのに反対する人がいる、あいつを排除しない限り自分は不安だ、あいつは憎たらしいと思うのです。

これが感情をコントロールできない人の特長です。

瞑想の目的は両極を捨てること

ヨーガスートラやタントラでは、この両極(善か悪か)へ進んでしまうことを「心が揺れる」と言います。どちらかの片方へ進めば安心できると思うのですが、実際には安心できないのです。 「しかし結論を決めないと物事は進まないではないか」
と二元論の人は考えます。
しかし、有史以来、人間の問題で解決できたものは、何一つありません。解決できないから、新しい何かを生む努力を繰り返すのです。 解決できると思っているだけで、本当は二元論の片側に腰を据えただけです。それは、反対側の人を黙らせているに過ぎないのです。

そういう状態は「愚かだ」ということです。
では、どうすればいいのでしょうか?
二元論・両極論をやめるということです。
しかし、人は何かを決めなければならないはずです。
いいえ、そう思い込むことが二元論なのです。
良いか悪いか決めたがるのは感情です。理性ではありません。

やるべきことは、良いも悪くない、真ん中にいることです。
真ん中にいるためには、二元論が大好きな「感情というもの」をコントロールして、何が真ん中なのかを理性で見出すことです。
理性を働かせるには、心を落ち着かせる必要があります。
その方法は、そう、瞑想なのです。

瞑想で幸せになるということ

瞑想でなぜ幸せになれるのかというと、心を不安定にする二元論・両極論から脱することができるからです。
瞑想で何も考えないというのは、実は両局から脱出して、自分が真ん中に存在することを確認するということだと、ヨーガ・スートラ、タントラで説明されています。

男女のセックスがもたらすことは真ん中を見つけること

男女は二元論の最たるものです。これほど両極端なものはありません。
男女の愛は、何のためにあるのでしょうか。
そう、両極端の2つの性が、真ん中に集まるためにあるのです。
その究極がセックスです。

完全なセックスが行われるとき、男女の差がなくなり、1つになった感覚を発見できます。
言い方を変えると、どんな人間でもセックスによって真ん中を体験することが可能なのです。どんな瞑想よりも簡単に真ん中を実感することができます。 これがタントラの哲学です。

真ん中を考えない限り無駄になる

セックスは危険です。先ほどの真ん中を見出すためにセックスが行われるのであれば、もしくは結果として真ん中を見つけられれば素晴らしい体験となります。 しかし、単なる欲望のためにセックスが行われると、それはどうなるのでしょうか?
「良いセックス、気持ちが良いセックス」というように求めると、それは善し悪し、肯定否定という二元論が生まれる温床になります。つまり、セックスが原因で好き嫌いが生じて、憎しみが生まれ、争いが起こります。これも、非常に簡単に起こってしまうものです。

ですから、タントラでは、セックスで真ん中を見つけよ、と言います。両国の男女が1つになる感覚を目指せと言うのです。

では、3秒間瞑想をしましょう。目を閉じて、鼻から息を吸い、口から吐く。その時に目をぱっと見開きます。

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喫茶店で3秒瞑想

喫茶店で執筆活動中。
アイデアが詰まると、軽く目を閉じ、鼻からゆっくり息を吸いながら空を見上げ、口で息をゆっくり吐いて、吐ききる時に目を開ける。

さて、さらに書くぞ!

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今日も、まず3秒瞑想(フラッシュ瞑想)から

一瞬にして瞑想。
3秒間キープ。
それだけで気分スッキリです。
名付けて「フラッシュ瞑想」

すっと心を落ち着けて、さっと目を開ける

目を閉じて、いっぱい鼻から息を吸いながら背筋を伸ばし、ゆっくり口から吐く。そして目をパッと開きます。空っぽになった心に、何かを感じ取りましょう。

これでワンセット。
好きなだけ回数を重ねてもOKです。
電車の中でも、喫茶店でもファミレスでも、どこでもできます。
運気アップ! 気力アップ! 精力アップ! これが古代インド哲学の知恵です。
アーサナ・ヨガ(体操)も効果的ですが、実行するのが大変ですよね。でも、フラッシュ瞑想なら、いつでもどこでも。
あ、アーサナ・ヨガの先生、フラッシュヨガ(3秒間ヨガ)って開発してくれないかなぁ。

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古代インド哲学とヨーガ

古代インド哲学とヨーガの考え方で幸せに暮らす方法を書籍にしています。
仏教とヨーガに似た考え方がありますよね。
その秘密を紐解きながら、幸せへの道を探ります。

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瞑想とタントラについて(3)

いつも長文になっちゃっている金澤藤馬です。
霊能力者の叔父(母方)が、僕の父方の先祖の足跡を辿れというので調べたら、父方は会津藩士で、戊辰戦争の時に北海道五稜郭まで行って最後まで戦い、敗戦時に氏姓を隠し(妻の姓を名乗り)現在に至ります。なので、現在の姓:渡辺は嘘で、本当は金澤(かねさわ)家です。

さて、タントラについて、また、書きます。

タントラ:前回までのまとめ

まず、タントラを学ぶ前段階として、西洋的な価値観をちょっと傍に置かないと正しく見えないというのが第1回でした。
そして、第2回は、Wikiのタントラの説明がちょっとダメで、しかもヒンドゥー教の説明も全然ダメで、そこで古代インドから日本の仏教までを歴史の流れで説明しました。

簡単に言えば、

  1. 紀元前9000年くらいがメソポタミア文明でアーリア人(いまのイラン)がヨーロッパの土台みたいなものを形成していた。
  2. 紀元前2000年くらいには、イランのアーリア人、北インドのアリーア人というようになったというか、インダス文明が衰退して、インドをアーリア人が統治ってことになっているけど。まぁ、これはアーリアン学説といって、トンデモ科学として現在は却下! イギリスがインドを統治した時に、サンスクリット語で書かれたすごい書物がいっぱい出て来て、ヨーロッパ人は、これは俺たちの祖先の言葉だ! って言い張っただけだと、僕は断言。
    その根拠は、ギリシャ哲学とインド哲学が全く違うということ。源流が一緒なんて言い切る根拠がまったくない。
  3. 紀元前1500〜1000年くらいに、古代インド哲学(ヴェーダ、ウパニシャッド)が誕生した。バラモン教も成立も同時期。これもアーリア人の統治と言っているけど、ぜんぜん肌の色が違うぞ。
  4. 紀元前500〜400年くらいに、ブッダがインド哲学を背景にした仏教を作った。つまり、バラモン教が国教になったのち、仏陀が仏教を起こしたという経緯。これも、アーリア人(バラモン)の支配から独立するという筋書きになっているけど、どうなのよ!
  5. (前回説明しなかったけど)、紀元前250年くらいに、インドはアショーカ王の時代で、このアショーカ王が、仏陀が死んだ後の仏教の宗派が乱立していたので、整理させて国教にした。ここで南伝・北伝の仏教の宗派の違いが生まれた。
  6. 紀元後(つまり西暦AC)400年くらいに、バラモン教が庶民も信仰できるヒンドゥー教になった。仏教が強くなりすぎたから。
  7. その頃(AC500)に、カーマスートラ(Kāmasūtra:性の教典)が編纂された。
  8. (これも書かなかったけど)日本の仏教伝来はAC550年くらい。
  9. (これも書かなかったけど)ムハンマドがイスラム教を興したのがAC610年だよ。
  10. AC600年代に、仏教はヒンドゥー教を取り入れて(大乗)密教になった。
  11. AC700年頃に、タントラが確立。
  12. AC800年前後が空海と最澄。
  13. (これも前回は書いていない)同時期にチベットの国が統一され、仏教が国教になる。
  14. AC1000年頃に、インドはセックス仏教(タントラを使う)が大流行。
  15. 実は、キリスト教が今のカトリック(ローマ・カトリック)になったのがAC1000くらい。
  16. AC1247が親鸞が浄土真宗。
  17. インド仏教は密教(ヒンドゥー)化して、AC700〜1200くらいの間にチベットへ移動。
  18. チベット仏教は、タントラを取り入れた特殊な密教となった。
  19. 宗教改革はAC1500年くらい。

という流れを紹介したんだ。
はー、疲れますね。

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ハイテク使うと、心が落ち着かない

muse脳波計を使っています。
それなりに面白いのですが、装着するとゲームをやっているような気分です。

数値が出ると、それが目標になってしまう

さて、museに集中力を養う効果はあると証明されているようです。
瞑想の役にも立ちます。
でも、数値が出るので、その数値が目標になってしまい、自分自身を見つめるという瞑想のそもそもの目的から逸れてしまいがち。

ということで、もう少し修行しないとダメっぽいです。あはは
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