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瞑想の起源

人は、病気や怪我、肉体や記憶の衰え、親のボケに接して初めて、魂と物質の隔たりを感じるのだろう。

ブッダが、(他人の)傷病老死を目の当たりにして、魂と物質の隔たりを若くして見抜いたのは、やはりブッダという偉人が、経験を通さず物事の本質を見抜く人であったと思うしかない。

僕は幼い時からかなりの病弱で、この体の辛さから逃れるのに、心と体を切り離す癖のようなものが身に付き、心(魂)は常に静かでいつも同じで何も望まず、ただ、体を眺めているということを知っていた。

成長するに従って体力が付くと、とたんに肉体的な欲望が強くなり、心と体を分離できなくなった。肉体が心を支配してしまったように思う。

また、歳をとり、また、親のボケを目の当たりにして、心を分離することを試みている。

瞑想している時に、これはかつて子供の頃の心の分離、そのものであると思う。というか、子供の頃には全てがわかっていた。いや、心(魂)は初めから同じ事だけを知っていた。

物質を心から遠ざける事が、その事自体が魂の本質だということだ。

誰でも、それはわかっているが、体力のある若い時の自分がそれを見失うように、誰もが見失っている。

なぜ見失うのか、それは肉体が強いからに他ならない。

この文章でさえ、肉体の延長であって、本質的には魂ではない。魂ではないが、古代の偉人たちの行ったと同じように、僕は書き記すしかない。ただ、無心に書き記すしかない。
書きながら瞑想状態を維持する。
心の中の言葉ではなく、言語にせずに文字にする。

おそらく、僕が何を言っているかが分からないかもしれない。
物書きが絶好調だった頃、そう、もう20年も前だが、僕は心を空にして、仕事の文章が書けていた。心の中で言葉を作る事なく、目と指が勝手に文字を作り出していた。自分では眠ってしまったのに、朝になると素晴らしい文章が出来上がっていた。
この時、僕は子供の頃の心と体を分離していた時と同じだった。

瞑想は、それを教えてくれる。

辛い時の瞑想について

人生では辛いことがたくさんなりますね。
人間関係、お金、仕事、自分の未来、才能や能力。
こうだったらいいのに、と思うことばかりです。
思い通りにいかないことばかりで辛いです。

瞑想してみた

瞑想は、魂(宇宙のエネルギー)と体(物質)の両立と分離を意識するための1つの方法だと古代インドの哲学者は考えました。

全ての悩みは物質からもたらされ、物質が主役になっている時の一時的な状態だと。

なぜ、古代の偉人たちは、そう考えたのでしょうか?
古代の人たちも、皆、同じような悩みを持っていたのでしょう。自分のこと、家族のこと、好きな人たち、嫌いな人たち、そして、親が歳をとりボケてゆく姿、そして自分も同じようになり、日々の悩みは、常に変化して、結局、人は近い記憶から失っていき、子供の頃の記憶にもどってゆく。それは、記憶もまた物質であって、筋肉が衰えるのと同じように記憶も心も衰えてゆのを親の姿の中に見てゆく。

心もまた物質だとしたら、そんな親の姿を季節の移り変わりと同じように遠目に見ることができることに気づく。親の姿はいつかの自分であると気付き、財産や地位と同じように自分の肉体もいつかは無になるという現実を受け入れることを努力する。

瞑想してみた

ボケた親が、真夜中の3時に、何度もいつ家に帰るのかと聞いてくる。ここが家なのに。子供の頃に住んでいた満洲に居ると思っていたり、引き揚げてから住んでいた島根だとおもっていたり、ここが病院だと思っていたり。

母に、瞑想を教えておけばよかったと、つくづく思う。
こだわりを捨てる技を教えておけばよかったと、つくづく思う。

きっと、古代の人たちも、どうすれば親を安らかにできるのかと考えたに違いない。何も、信仰がどうの、修行がどうのというのではない。純粋に、安らかであるにはどうするのかを、1つ1つの出来事の中で見出そうとしていたに違いない。

記憶は物質である。気分も物質である。心も物質である。

そう結論づけることで、多くのことがわかってくる。
なぜ、昨日までの気分が今日は違っているのか。
身の回りの状況は何も変わらないのに、心だけが勝手に変わる。
記憶もまた、勝手に書き変わり、無常である。

しかし、世の中には普遍なものもある。宇宙は常に存在し、自分も常に存在している。その自分とは、移り変わる心でも体でもない、その奥底にある「何か」だ。

瞑想してみた

古代の偉人たちは、普遍を分かろうと求める性質、物質の最上を求める性質、流されることを好む性質の3つがあることを発見している。

瞑想の中に、それを見出すことができるのだろう。

古代インドの書物(バガヴァッド・ギーター)より

自分が地位や富を得ることの幸せは、他の誰かの富や権力を奪う不幸との裏表である。

人は、何かとてつもない出来事が身に降りかかるってはじめて、そのことについて考え始める。自分とは何か、人として何をするべきか、死によって終わりが来る人生にはどんな意味があるのか、考えるのである。

運命は決まっているのか?

瞑想と運命に関して、古代インドのバガヴァッド・ギーターでは、創造神クリシュナが武将アルジュナに、「(神である)私は何も約束しない」と言います。
つまり、何か目的を持って行動したとしても、それが実現するかどうかは人間には判らないということです。
過去の出来事を一生懸命に調べて自分を比べて、こうするべきだったというのは、実は意味のないことで、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのかというのは、何の法則性もないということです。

人間の作ったルールと運命

しかし、現実社会では受験をしたり資格を取ったりして、地位を確定していきます。この場合には何をすればどうなる、という法則がある程度成り立ちます。なぜなら、これは人間が決めたルールだからです。つまり、人間の決めたルールの中にいれば、ある程度の未来は約束されるということです。人間が決めたルールの中では、誰かの真似をしていれば、予想通りの結果に近づけます。それゆえ、この現代社会にはコピペ人間が増え、そのコピペ人間が自分たちに都合がいいルールを決めてそれを守っています。

その最たるものは官僚システムです。実社会とはほとんど関係ない「暗記術がメインの難問」に答えられた人間に、「権威があるから偉い」という地位を与えます。彼らこそが人間の決めたルールの中だけに生きている者たちで、コピペ以外の仕事はしません。

ルールと運命を混同している

そうした人間のルールの中にいる人たちは、ルールが運命だと信じています。そしてそれを生涯守り続けます。例えば、国民を騙してでも官邸を守るという官僚の行為は、実は官僚ルールを守っているということです。つまり、官僚ルールが壊れると、自分たちの運命が壊れてしまうのです。官僚のルールを変えられるのは、今は官邸です。つまり官邸が彼らの運命を決める神様になってしまっているのです。

しかし、運命は決定していない

官僚を例にとっていますが、実はそんなことをしたらそうなるという約束はありません。でも、例えば上司に楯突けば左遷させられる、という暗黙のルール(運命)があるではないですか。これはどうしたらいいのでしょうか。
そう、普通に楯突けば人間のルールに従って左遷させられます。
では、本当の神様の運命に近くにはどうすればいいのでしょうか。
それは、ギーターに書かれています。
『無我夢中でやることだけが私に近づく』
つまり、小さな画策や考えで行動すれば人間のルールに従ってしまいます。
でも、後先考えず夢中でやりぬくことだけが正しい道だと語られているのです。
この夢中でやり抜くことができるかどうかだけが、本当の運命に出会う手法だとギーターに書かれています。

見ることは偏見から始まる。

まず、どこを見ますか?
花ですか?
花弁ですか?
若葉ですか?

しかし、枝も幹も、桜です。
そして地中の根も、桜です。

そして、香りは桜ですか?
食べた時の味は桜ですか?
幹に触れた時、それは桜ですか?
風に揺れる音は桜ですか?

目に見えるもの、そして見てしまうものは、桜の一面でしかありません。
しかも、目は勝手に見る対象を選びます。

意識が目をコントロールしないと、見えないものがあります。
意識が手をコントロールしないと、触れないものがあります。
意識が耳をコントロールしないと、聞こえないものがあります。
意識が舌をコントロールしないと、味わえない風味があります。
意識が鼻をコントロールしないと、嗅げない匂いがあります。

意識を強くしないと、全体はわかりません。
でも、心は桜をすでに確信しています。
確信した心は、どんな桜か見極めようとします。
その時、5つの感覚は、俺は見ていない、聞いていない、触れていない、聞いていない、嗅いでいないとは言ってくれません。

心もまた、勝手に見るものを勝手に選んでいます。
「桜はこんな色」
意識が心をコントロールしないとどうなるでしょうか?

瞑想とは、全てを見るということです。

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タントラの考え方でカーマ・スートラを実行すると喜びの涙が止まりません

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タントラの考え方でヨーガ・スートラを実行するとは?

この世で最も美しく、もっとも心地よく、幸福で、ちょっと怖いけど、ここに居ればもう旅行も贅沢もお金も地位も必要ない、全てが手に入っていると思える場所があります。これを仏教では極楽浄土とか涅槃だとか、キリスト教では神の国などと、いろいろ表現されています。

みなさんはそれを見たことがありますか?

それが見えると、感謝の心に包まれ、喜びの涙が溢れて止まりません。
それは大昔から、多くの人が探し求め、修行を積み、やっと到達できるものだと思われて来ました。ところが、古代インド、つまり西暦400年から1000年過ぎくらいまでのインドでは、誰でもその世界を見ることが出来ていたようです。しかし、西暦1000年頃はローマ・カトリックが成立した時期であり、世界は混乱の中に落ちて行くころ、インドの素晴らしい生活も姿を消すこととなります。

しかし、インドのタントラの知恵は仏教の中に隠され、今日でも生きています。
でも、どうやって見るかという方法は、偏見や誤解の中に埋もれています。

虹の宇宙、真っ白い世界、自分が溶けてゆく

性の正しい認識と技術があれば、素晴らしい世界を見ることができます。その中で生き続けるには仏教やヨガの極致が必要ですが、見て体験することは誰でも可能です。

友人の祈祷師びびこちゃんは、そんな体験が有ると言います。びびこがそこで見た景色と、僕が体験した景色は同じでした。

びびこは祈祷師(占い師)なので、彼(彼女?)の能力を使って、その世界へ入れたのだろうと思います。
一方の僕は、古代インド哲学とカーマスートラの実践の中で、同じものを見ました。

僕もびびこも、虹の波が広がる宇宙が見え、その中に自分が溶け込んでいくイメージです。
また、僕は壮大な銀河が見えることもあります。無限の宇宙が迫って来て、その中に自分が溶け込みます。その中で言葉にできない幸福感と、生命への感謝の気持ち、エネルギー、活力、安らぎなどを得ることができました。

どうやればいいのか? 宇宙と自分の関係を理解する心の準備して、カーマスートラの技術の実践です。

『古代インド哲学』+『カーマスートラの実践』=『タントラ』

ネットにカーマスートラやタントラの情報は沢山あって、それぞれに解釈があり、みんな似たようで違うことを書いています。困りますね。
しかし、歴史をちゃんと調べると分かることがあります。それは、まず、古代インド哲学というのがあり、これには4種類ほどのバリエーションがあります。そのどの流れをくむかで多少の違いがあります。しかし、どれも世界の成り立ち、命とは何か、人生とは何かという考え方です。その古代インド哲学の完成の後にカーマ・スートラが偏差されます。生活の知恵としての「性のマナーと技術」を広大なインド中から集めて編纂したものがカーマ・スートラです。この2つを組み合わせたのがタントラだと思うと理解しやすいはずです。

ところが、ネットなどにあるタントラの情報は常に大切な部分が欠落していて、一体何をして良いのかが分からないのです。例えば「チャクラ」とはタントラの考え方です。もともとセックスの技法を観念的に言葉にしたというべきなのですが、いつの間にか超能力の宿る場所のようなイメージになっています。

どうすれば良いのか。まず、先入観、過去の知識、多くの人が言っていることを忘れて、正しいとか正しくないというどちらかに偏らない心をイメージします。
その中で、インド哲学の基本を学びます。それは簡単です。

  1. 肉体は魂を入れる乗物
  2. 個性の差は、入れ物の違い(男女の差も)
  3. 互いの魂は1つになるのが定め(相手と自分が1つになるのが定め)
  4. 肉体のわがままに惑わされない(好き嫌い、愛して欲しい、認めて欲しいなどは肉体の声)

このくらいを頭に置くことです。でも、愛は魂の問題じゃないの?と思う人が多いでしょう。
その答えは、タントラの実践の中で、後から分かります。

実践無くしては、何も得られないのです。

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カーマ・スートラ解説本のネタ本を変更します。

これまでカーマ・スートラの新たな解説本を書くために、バートン版の英語訳の『kama sutra』と、おそらくその日本語訳と思われる大場政史氏の『カーマ・スートラ』をベースにしてきました。
ところが、数多くの誤解や誤訳にぶつかったので、テキストを増やしました。

『完訳 カーマ・スートラ』岩本裕訳・中野美代子解説(平凡社)が優れていた

今更ですが、平凡社の『完訳 カーマ・スートラ』を購入して(再購入かな)、先程、電子化してiPadとiPhoneに入れましたよ。
というか、パラパラ読んだだけでも、かなりの優れた翻訳と解説ですね。
あ〜、僕が解説しなおさなくてもいいかもしれない。と思うくらいによく出来ています。

しかも、この本は、元のサンスクリット語であった詩篇の翻訳も掲載されている。そう、詩篇である事が非常に重要なんです、古代インドの書物は。

バートン版が、とにかく誤解や誤訳が増えてしまう大きな理由は、英語にあります。英語には女性名詞男性名詞の区別がないので、日本語と同様に主語を間違えやすい。というのは、サンスクリット語というのが、日本語の構造にちょっと似ていて、主語が不確定なんです。そこで、女性男性名詞を見分けて、主語を推測します。日本語が敬語を利用するのに似ています。

でも、バートンはたぶん、その能力が足りていなかったんだなぁ。

僕の翻訳と岩本翻訳は99%一致


さて、ここ一週間ほどカーマ・スートラの翻訳に没頭してきましたが、前述のようにバートン版(英語)がベースで、かなり苦労しました。なので「意訳する」という体裁で書き進めてきました。

岩本版と僕の意訳を比べてみるとどうでしょうか。
うんうん、ほとんど一致。よかった!
ただ、岩本版の日本語名称(半球の体位など)は、かなり素晴らしいなぁ。ただし、元のサンスクリット語の固有名詞をカタカナにしている部分などは、日本語で読むと呪文的になってしまっていて、分かりにくい部分もあります。翻訳本なので、これは仕方ないですね。

いずれにせよ、非常に完成度が高い翻訳本です。元はフランス語版のカーマ・スートラだそうです。

僕は、カーマ・スートラを翻訳本ではなく、実用本として使えるように編纂し直します。
また、後続の「タントラ」や「理趣経」「秘密集会タントラ」とも比較しながら、カーマ・スートラから発展した哲学や思想・宗教で新たに発見されたであろうことも織り込みたいと思っています。

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神秘主義とエクスタシー(脱我) mysticism & ecstacy

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突然ですが、瞑想やヨガの究極の目標がエクスタシーだということをご存知でしょうか?
どうも、そうらしいので、調べてみました。

wikiによりますと、

『エクスタシー(英: ecstasy)とは、
快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。忘我。
宗教的体験における神秘的な心境。予言、幻想、仮死状態などをともなうことも多い。
脱魂とも。
語源はギリシャ語のέκστασις(ekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、魂がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている』

瞑想でエクスタシー!

つまり、瞑想やヨガ(身体動作)の目標は、エクスタシーに達することとなります。
もちろん、ヨガで美しくなる、健康になるという目標を持つことも素晴らしいことですよね。なぜなら、美や健康がエクスタシーを増進する(早く近づく)からですね。

瞑想の役割は何でしょうか?
古代インドの経典『バガヴァッド・ギーター 』の中で創造神クリシュナ(千手観音を想像してください)は、
『瞑想が、一番早く近づくことができる』
と断言しています。
つまり、瞑想でエクスタシーに達するのが一番いいと言っています。
なるほど。

ヨガ(身体動作)はダメなの?

では、ヨガ(身体動作)については何と言っているでしょうか。
実は、非常に酷いこと、辛辣なことを言っています。
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁ、そこまで言わなくてもいいのに。

では、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガに関する最古の教典)はどうでしょうか?
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁぁ、同じ事を言っています。

でも、ギーター の中でクリシュナは、後ろの方で、こう言っています。
『無駄ではない。健康体操・美容体操も、いつかは(エクスタシーに)達する』
ああ、良かったですね。

目的はエクスタシーである

クリシュナは、どういう意味で『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』と言ったのでしょうか?

瞑想やヨーガの目標は「悟ること」です。つまり、それはエクスタシーの向こう側の世界です。
では、ヨガ(体操)で健康になること、美しくなる事のどこに問題があるのでしょうか?

『美しくなる健康になるための行為は、肉体に対する投資だ。肉体は常に変化し滅びへ向かう。それが心の不安定さを生み出す。するとエクスタシーは遠退く』

ただし、健康体操や美容体操を否定しているわけではありません。健康になりたい、美しくなりたいということのためには、身体動作のヨガ(健康体操や美容体操)は素晴らしいと書かれています。
しかし、こうも書かれています。
『「健康体操・美容体操をすれば、心も浄化される、瞑想ができる」と言う人は偽物だ。そう言う人に限って、組織を作り金儲け(必要以上のお金を稼ぐ)をしようとする。彼の目標はお金であって、他人の幸せ(エクスタシー)ではない。そういう人間に従うのは間違っている』
そんな事を言われても困りますよね。

良き指導者を見極めよ

『悟るため(エクスタシーのため)のヨガ(体操)を実践するのは、瞑想と同じように素晴らしい価値がある。それが本当のヨーガである。ヨーガの結果として健康になる、美しくなるのは褒美であり、副産物である。だが、褒美を目標にしてはいけない』

なるほど、ヨガ(体操)が悪いのではなく、実践する心構えが重要だという事ですね。
でも、実際にはどうしたらいいのでしょうか?

『(エクスタシーを知る)ヨーガを教える者は、相手と自分の区別がない(忘我)。教えた事に対する対価すら欲しがらない。なぜなら、自分と他人が同じになる事がエクスタシーだからだ。だから、貴方は、指導者と貴方が生活に困らないための最小限の布施をすればよい。その関係が、エクスタシーへの最短の道である』

ヨーガの実践には指導者が欠かせないとギーター でもヨーガ・スートラでも語られています。その指導者の見極めは、上記のような態度にあると言えますよね。

逆の言い方をすれば、ヨガ(体操)の指導者こそが、エクスタシーを求める純粋な心が必要だという事であります。

結局、エクスタシーって何?

さて、何度もエクスタシーという言葉が出てきました。でも、一体、どんな事なのでしょうか? もちろん、それを知る事は悟りを開くという事であります。
しかし、古代の書物では、このように表現されています。

『スポーツや戦争で仲間と一体感を得た時、音楽で大勢が1つの心になった時、同じ美しい景色や絵を見た時に皆が同じように感動している時、(タントラでは)男女が合一して1つに溶け合うことを感じている時、それが(一瞬の)エクスタシーである。このエクスタシーを永遠に続けるための行為がヨーガである』

なるほど、考えてみるに、一瞬のエクスタシーを知らなければ、永遠のエクスタシーはわからないということだと思います。だから、ヨガ(体操)でも瞑想でも、一瞬のエクスタシーを大切にして、それを持続するための訓練が必要だという事なんですね。

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何もできなくなった時にこそ瞑想

仕事や人間関係で何もできなくなることがあります。
簡単な例では、このブログ。一体何を書いたらいいのか分からなくなることがよくあります。

そんな時には短時間の瞑想を行っています。そう、1分未満の短い瞑想です。

瞑想で不思議とアイデアが生まれる

瞑想を繰り返すと、アイデアが自然に湧き出してくるのを感じることができます。
行き詰まった仕事にも、解決策が見つかったりします。
出会いや幸運を引き寄せられたります。

でも、欲から瞑想するとダメです。2000年前のインド哲学にも同じことが書かれています。

瞑想で魂の浄化って何?

魂を浄化するというのは、よく聞く言葉です。
いったい何のことでしょうか?
インド哲学では、汚れた記憶(サンスカーラ)の蓄積で、間違った判断、人への暴言や怒り、不安などが生じるとされています。
人間は経験を通して記憶が蓄積されます。その記憶を通して物事を見てしまうのが人間です。例えば嫌なことがあれば、次の出来事を見る時に「また嫌なことがあるんじゃないか」と思うのです。これが魂の汚れ、と言われています。

瞑想で記憶を押し留める

刻まれてしまった記憶を消すのは不可能に近いでしょう。しかし、記憶によって汚れてしまった魂をどうしたらいいのでしょうか?
瞑想の目的は、汚れてしまった記憶を客観的に見るということにあるそうです。
記憶と自分を分離して、嫌な思い出は「そういうこともある」と自分と切り分けるのです。

忘れようとすれば思い出す

忘れようとしないことが重要だとウパニシャッドに書かれています。忘れようとすればするほど強く心に刻まれてしまうのです。
どうしたらいいのでしょうか? 無視せよ、と書かれています。
思い出は思い出であって、自分ではないのです。
無視するのです。

瞑想で嫌な記憶が無視されるようになる

そうしたら、無視できるのでしょうか?
瞑想しかない、と書かれています。

By 瞑想LOVE

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