「瞑想」カテゴリーアーカイブ

MUSEで瞑想中

強烈なラジャスの毒気に当てられたので、久々にMUSEで瞑想してみた。一年ぶりかなぁ。
いやぁ、全然ダメだなぁ。ほとんど瞑想状態にならない。
5分間の簡単な瞑想でも、瞑想状態は数%にしかならない。心が落ち着いた状態(calm)は90%くらいで、脳が活動状態が10%近くもある。全然ダメだ。

やはり、毎日瞑想しないと心がざわつくのかなぁ。それともラジャスにやられたのか。
ちょっと焦りの気持ちも自覚できるし、ざわざわするんだよねぇ。

アドラー心理学の話を先日聞いたんだけど、それも面白かったけど、まぁ、学会の人間関係も大変そうで、それも心をざわつかせているのかもしれない。
いずれにせよ、サンスカーラが蓄積されそうで、とにかく瞑想して、知性の座の混乱を収めないとだめだ。

瞑想を繰り返してみた

三回目の短い瞑想で、やっと半分くらいの時間が瞑想状態になった。やや気分が落ち着いてきたなぁ。毎日瞑想していたときには95%くらいは瞑想状態になっていたので、それに比べると、今はかなりざわついている。

いかんなぁ、とあまり気に病むとサンスカーラが溜まるね。
ざわつく自分を俯瞰して可愛がってやろう。

ギーターの解説本を書き始めたんだ

バガヴァッド・ギーターは、インド哲学を学ぶ上で重要な書物だ。解説本もたくさん出ている。大きく分けると、ヨガ系の人たちが書いた本と、宗教系の人が書いた本と、学者系が書いた本に分かれる。どれが良いというのは一概には言えないのだが、健康体操・美容体操としてのヨガ系の人が書いた本は酷いものが多い。もちろん、ちゃんとヨガを極めた人の本もあって、それは非常に読み応えがあって知己に富んでいる。

解説本というよりは入門書

これまでのギーター解説本は、実はそれ一冊だけ読んでも、なかなか奥まで届かない。ギーター以外にウパニシャッドやヨーガスートラなどの書物を読み込まないと分からないというか、実感できない部分が多いのだ。

そこで小生は、ギーターを読む前に必要なことをエッセイ風に分かりやすく書くことにしたんだ。要するに必要最低限の基礎知識を先に学んで、それから叙事詩であるギーターを読んでみるという構成だ。
ただ、この構成にすると、ギーターを早く読みたい人にとっては、前置きが長すぎて耐えられないだろう。まぁ、そこが重要なことなんだけどね。
そのあたりは物書き歴が30年になった小生っとしては挑戦したいところなんだ。
ここ10年くらい、インド哲学はじっくり研究してきたので、楽しみながら書いていこう。

呪詛の勉強を進めているんだ。




呪術は奥が深いですね。
呪詛の大辞典を手に入れ、勉強を始めました。

呪詛は、単なるオカルトと断じることもできますが、実際にやり始めると、その効果の大きさに自分でも怖くなります。

呪術の基本は、人の心にどう作用するか、ということに尽きます。生命とは、単に物質が順序正しく並んでいるだけの構造体に宿っているわけではなく、物質とは別の存在だと感じます。
例えば、生きている人が目の前で死んでも、物質としての構造に変化があるわけではない。
生命という原動力がなくなり、物質の動きが完全に止まった状態が「死」なのです。
逆に、物質に何かが宿った時に「生きている」という状態になります。

呪詛は生命なり

呪詛は、その「命」を使う手法ですね。
命ある人はみんな、呪詛が使えます。ただ、自由自在に行うには、それなりの手法が必要です。日本の長い歴史の中で、神道にも密教にも禅宗にも日蓮宗にも、土着の信仰にも、皆、呪詛があります。
言い換えれば、呪詛は息をするのと同じように、当たり前の生活の一部でした。
例えば、怒りを露わにするのも、もっとも基本的な呪詛です。怒りという呪詛が、相手を萎縮させ、やりたくないこともやらせることができます。
多くの場合には、言葉が呪詛になりますが、視線や手の動きも呪詛です。
そういった呪詛は、大昔から政治の中枢にまで活用されてきました。
今の世の中を見ても、政治を理屈で推し進められないし、科学で割り切ることもできない。
そう言った人間の欲が渦巻く世界では、今でも呪詛が非常によく働きます。

呪詛を使え

さて、ここで呪詛を使ってみましょう。
「鬼に星」
ウイルス退散です。




どこまで書き込むのか? [category 書籍執筆,ポメラ




録音技術のノウハウ本が仕上げ段階に入っているんだ。当初は軽く書こうと思っていたんだけど、いろいろな人と話しているうちに、必要な事柄が増えてしまった。まぁ、それはいいことなんだけど、ちょっと構成を変えなくちゃいけないかな。

売れる本とは

今、桜風涼ブランドで売れているのが、
1:中華製FFヒーターの取り付けマニュアル
2:超入門・ストーリーの書き方
3:実用本の書き方

どれも、かなり細かく書き込んでいる。
やっぱり、書き込むことは重要なのね。

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痴呆症とインド哲学

仏教の開祖であるブッダは、生老病死を見て、いろいろ悟ったわけですが、僕もお袋の痴呆を介護していて、いろいろインド哲学の正しさを実感しています。

諦めることを知らないことは、本当に地獄です。
自分が分からなくなった時の恐怖、失うことの恐怖、やりたい事が出来なくなる恐怖、それが痴呆の怖いところです。
諦めることを知っていれば、その恐怖も小さくなる。祖母は見事に諦めて、安らかな死でした。親父もまた、「諦めたよ」と笑って死んでいきました。

瞑想もまた、死を実感する行為じゃないかと思うのです。
そうした人間の死を見つめることが、インド哲学の本質じゃないかと思うのです。

悪意・悪徳とは何か?

マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を読み進むとともに、人間の本質は、やはり悪なのかと思えてくる。
一方で、インド哲学的な人(物)の三元素である「サットヴァ」「ラジャス」「タマス」で考えると、この世の中はラジャスで多く形成されているのだし、富や名声がラジャスに由来するのだから、王族・貴族・法王などがラジャス的欲求の中で、自分たちの快楽のために他人を殺し続けるのも、当然と言えば当然なのだろう。ましてやレイプや拷問は、それに至る過程であり、手段として描かれている。
また、本書では特にローマ・カトリックを痛烈に蔑んでいる。例えば、聖書には規定されていない教義で私服を肥やしているという批判だ。

しかし、現実問題として、
1:悪徳は人に快楽を与えてくれる。
2:嘘は人間関係を発展させる。
3:虚栄はビジネスを推し進める。

本書では、これを悪徳哲学として普遍化している。主人公のジュリエットが出会う悪徳の人々は、それぞれ別の生き方をしているにも関わらず、すべて同じ哲学・思想を持っている。何度となく、出会うハレンチな人間が、同じような試金石をジュリエットにぶつけてくるのだが、毎度毎度、彼女は認められるのである。

ヨーロッパの暗黒時代の繁栄と思うなかれ

この本がヨーロッパの暗黒時代を色濃く反映していることは事実だろう。そしてフランスにおける民主革命を背景に、権力者を痛烈に批判するものであることも事実だろう。

しかし、これをヨーロッパの出来事と考えるのはどうか。
日本でも、つまり東洋でも同じではないのか。
権力、悪徳、ハレンチ、それが人間の本質だということは、否定できない。
それでいて、古代インド哲学ある、万物共通の魂という概念をどう位置付けるか、そこが僕の今後の課題になりそうだ。

いずれにせよ、性をどう考えるかがポイントだ。

マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』とタントラ




マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』は、殺人・拷問・セックス・乱行・糞尿・幼児セックス・キリスト教会の大否定など、とにかく快楽を追求し続けるジュリエットという娘の物語だ。
彼女の行いや出会う人間たちの行動や哲学は、どうも『秘密集会タントラ』に酷似する部分が非常に多い。

セックス仏教の思想はフランスに届いていたのか?

『秘密集会タントラ』は、かつての古代インドのセックス仏教の繁栄の後、イスラムの侵攻でチベットへ逃亡したセックス仏教の中で出来上がった、セックスこそが涅槃に至る道、幸福への最短距離、しかも、乱行、近親相姦、不倫、糞尿を用いるセックスなどを大々的に推奨しており、それを菩薩などのいわゆる神様たちが行なっているという内容だ。

マルキ・ド・サドがセックす仏教という意味でのタントラを知っていたかは不明だが、内容の酷似性は注目に値する。
タントラ思想が確立したのは西暦1000年程度で、(セックス教として弾圧されて)チベットへ仏教が逃亡したのがそのすぐ後である。
サドの時代は1780年前後に「肛門セックス」で有罪になってバスチーユに投獄、その後精神病院に入れられているときに様々な文学を書いている。
時代的にはタントラ思想に触れることは可能だが、キリスト教のもとでは、書物として『秘密集会タントラ』などが手に入ったかどうかはわからない。

人間の本質を深く思考するとセックスだけになる

せっくす仏教と佐渡が隔絶されていたとしても、同じ思想にたどり着いている点は注目に値する。人間の本質を分析すると、ここにたどり着くと考えてもいいのかもしれない。
人を拷問しながら、殺しながらのセックスほど素晴らしいものはない、というのが悪徳の栄えの中心テーマになっているのだが、それを実現するにあたって『権力』とは何か、『法律・ルール』とは何かを常に読者に投げかけてくる。そして、一般庶民とはどういう人間なのかを痛烈に批判・貶めている。さらに、権力者の腐敗がなぜ起こるのか、それも見事に書き込まれている。

殺人・犯罪は別にして、セックスの本質が見えてくる

人間はどうあるべきか、というテーマに対するアンチテーゼが『悪徳の栄え』とも読める一方で、自然の一部である人間の存在を前面に押し出しているのがこの本なのだが、西洋文化、特にキリスト教の『人間こそが自然の支配者』という考え方を完全に否定し、自然の一部である人間は、どう生きるべきかということを読者にどんどん投げてくる。
そして、幸せはセックス以外にはありえない、という結論をどんどん強固なものにしてくれている。
タントラを学びつつ、この『悪徳の栄え』を細かく読むと、いろいろなものが見えてくる気がしている。

 




瞑想の起源

人は、病気や怪我、肉体や記憶の衰え、親のボケに接して初めて、魂と物質の隔たりを感じるのだろう。

ブッダが、(他人の)傷病老死を目の当たりにして、魂と物質の隔たりを若くして見抜いたのは、やはりブッダという偉人が、経験を通さず物事の本質を見抜く人であったと思うしかない。

僕は幼い時からかなりの病弱で、この体の辛さから逃れるのに、心と体を切り離す癖のようなものが身に付き、心(魂)は常に静かでいつも同じで何も望まず、ただ、体を眺めているということを知っていた。

成長するに従って体力が付くと、とたんに肉体的な欲望が強くなり、心と体を分離できなくなった。肉体が心を支配してしまったように思う。

また、歳をとり、また、親のボケを目の当たりにして、心を分離することを試みている。

瞑想している時に、これはかつて子供の頃の心の分離、そのものであると思う。というか、子供の頃には全てがわかっていた。いや、心(魂)は初めから同じ事だけを知っていた。

物質を心から遠ざける事が、その事自体が魂の本質だということだ。

誰でも、それはわかっているが、体力のある若い時の自分がそれを見失うように、誰もが見失っている。

なぜ見失うのか、それは肉体が強いからに他ならない。

この文章でさえ、肉体の延長であって、本質的には魂ではない。魂ではないが、古代の偉人たちの行ったと同じように、僕は書き記すしかない。ただ、無心に書き記すしかない。
書きながら瞑想状態を維持する。
心の中の言葉ではなく、言語にせずに文字にする。

おそらく、僕が何を言っているかが分からないかもしれない。
物書きが絶好調だった頃、そう、もう20年も前だが、僕は心を空にして、仕事の文章が書けていた。心の中で言葉を作る事なく、目と指が勝手に文字を作り出していた。自分では眠ってしまったのに、朝になると素晴らしい文章が出来上がっていた。
この時、僕は子供の頃の心と体を分離していた時と同じだった。

瞑想は、それを教えてくれる。

辛い時の瞑想について

人生では辛いことがたくさんなりますね。
人間関係、お金、仕事、自分の未来、才能や能力。
こうだったらいいのに、と思うことばかりです。
思い通りにいかないことばかりで辛いです。

瞑想してみた

瞑想は、魂(宇宙のエネルギー)と体(物質)の両立と分離を意識するための1つの方法だと古代インドの哲学者は考えました。

全ての悩みは物質からもたらされ、物質が主役になっている時の一時的な状態だと。

なぜ、古代の偉人たちは、そう考えたのでしょうか?
古代の人たちも、皆、同じような悩みを持っていたのでしょう。自分のこと、家族のこと、好きな人たち、嫌いな人たち、そして、親が歳をとりボケてゆく姿、そして自分も同じようになり、日々の悩みは、常に変化して、結局、人は近い記憶から失っていき、子供の頃の記憶にもどってゆく。それは、記憶もまた物質であって、筋肉が衰えるのと同じように記憶も心も衰えてゆのを親の姿の中に見てゆく。

心もまた物質だとしたら、そんな親の姿を季節の移り変わりと同じように遠目に見ることができることに気づく。親の姿はいつかの自分であると気付き、財産や地位と同じように自分の肉体もいつかは無になるという現実を受け入れることを努力する。

瞑想してみた

ボケた親が、真夜中の3時に、何度もいつ家に帰るのかと聞いてくる。ここが家なのに。子供の頃に住んでいた満洲に居ると思っていたり、引き揚げてから住んでいた島根だとおもっていたり、ここが病院だと思っていたり。

母に、瞑想を教えておけばよかったと、つくづく思う。
こだわりを捨てる技を教えておけばよかったと、つくづく思う。

きっと、古代の人たちも、どうすれば親を安らかにできるのかと考えたに違いない。何も、信仰がどうの、修行がどうのというのではない。純粋に、安らかであるにはどうするのかを、1つ1つの出来事の中で見出そうとしていたに違いない。

記憶は物質である。気分も物質である。心も物質である。

そう結論づけることで、多くのことがわかってくる。
なぜ、昨日までの気分が今日は違っているのか。
身の回りの状況は何も変わらないのに、心だけが勝手に変わる。
記憶もまた、勝手に書き変わり、無常である。

しかし、世の中には普遍なものもある。宇宙は常に存在し、自分も常に存在している。その自分とは、移り変わる心でも体でもない、その奥底にある「何か」だ。

瞑想してみた

古代の偉人たちは、普遍を分かろうと求める性質、物質の最上を求める性質、流されることを好む性質の3つがあることを発見している。

瞑想の中に、それを見出すことができるのだろう。