「インド哲学」カテゴリーアーカイブ

MUSEで瞑想中

強烈なラジャスの毒気に当てられたので、久々にMUSEで瞑想してみた。一年ぶりかなぁ。
いやぁ、全然ダメだなぁ。ほとんど瞑想状態にならない。
5分間の簡単な瞑想でも、瞑想状態は数%にしかならない。心が落ち着いた状態(calm)は90%くらいで、脳が活動状態が10%近くもある。全然ダメだ。

やはり、毎日瞑想しないと心がざわつくのかなぁ。それともラジャスにやられたのか。
ちょっと焦りの気持ちも自覚できるし、ざわざわするんだよねぇ。

アドラー心理学の話を先日聞いたんだけど、それも面白かったけど、まぁ、学会の人間関係も大変そうで、それも心をざわつかせているのかもしれない。
いずれにせよ、サンスカーラが蓄積されそうで、とにかく瞑想して、知性の座の混乱を収めないとだめだ。

瞑想を繰り返してみた

三回目の短い瞑想で、やっと半分くらいの時間が瞑想状態になった。やや気分が落ち着いてきたなぁ。毎日瞑想していたときには95%くらいは瞑想状態になっていたので、それに比べると、今はかなりざわついている。

いかんなぁ、とあまり気に病むとサンスカーラが溜まるね。
ざわつく自分を俯瞰して可愛がってやろう。

マハーバーラタと旧約聖書

マハーバーラタは古代インドの叙事詩で、世界最大の分量を誇る。時代的には旧約聖書の時代と同じか、もっと古い(アダムとイブの時代かなぁ)。 マハーバーラタは神の系譜と、そこから生まれた人間の系譜が書かれている。
旧約聖書は地上に現れた人間の系譜となっている。
旧約聖書では、神がどのように存在したのかと言うことについてはさほど語られず、非常にシンプルに地球(この世)を神が作ったところからスタートする。
一方のマハーバーラタは、多くの神が勢力争いをして、この世を作って勢力争いをしている時代から話が始まる。その神が人間の姿を借りて、様々な地方を統一して行く。これは日本書紀にも近い構造だ。

さて、もう少し研究して行こう。

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悪意・悪徳とは何か?

マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を読み進むとともに、人間の本質は、やはり悪なのかと思えてくる。
一方で、インド哲学的な人(物)の三元素である「サットヴァ」「ラジャス」「タマス」で考えると、この世の中はラジャスで多く形成されているのだし、富や名声がラジャスに由来するのだから、王族・貴族・法王などがラジャス的欲求の中で、自分たちの快楽のために他人を殺し続けるのも、当然と言えば当然なのだろう。ましてやレイプや拷問は、それに至る過程であり、手段として描かれている。
また、本書では特にローマ・カトリックを痛烈に蔑んでいる。例えば、聖書には規定されていない教義で私服を肥やしているという批判だ。

しかし、現実問題として、
1:悪徳は人に快楽を与えてくれる。
2:嘘は人間関係を発展させる。
3:虚栄はビジネスを推し進める。

本書では、これを悪徳哲学として普遍化している。主人公のジュリエットが出会う悪徳の人々は、それぞれ別の生き方をしているにも関わらず、すべて同じ哲学・思想を持っている。何度となく、出会うハレンチな人間が、同じような試金石をジュリエットにぶつけてくるのだが、毎度毎度、彼女は認められるのである。

ヨーロッパの暗黒時代の繁栄と思うなかれ

この本がヨーロッパの暗黒時代を色濃く反映していることは事実だろう。そしてフランスにおける民主革命を背景に、権力者を痛烈に批判するものであることも事実だろう。

しかし、これをヨーロッパの出来事と考えるのはどうか。
日本でも、つまり東洋でも同じではないのか。
権力、悪徳、ハレンチ、それが人間の本質だということは、否定できない。
それでいて、古代インド哲学ある、万物共通の魂という概念をどう位置付けるか、そこが僕の今後の課題になりそうだ。

いずれにせよ、性をどう考えるかがポイントだ。

マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』とタントラ

マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』は、殺人・拷問・セックス・乱行・糞尿・幼児セックス・キリスト教会の大否定など、とにかく快楽を追求し続けるジュリエットという娘の物語だ。
彼女の行いや出会う人間たちの行動や哲学は、どうも『秘密集会タントラ』に酷似する部分が非常に多い。

セックス仏教の思想はフランスに届いていたのか?

『秘密集会タントラ』は、かつての古代インドのセックス仏教の繁栄の後、イスラムの侵攻でチベットへ逃亡したセックス仏教の中で出来上がった、セックスこそが涅槃に至る道、幸福への最短距離、しかも、乱行、近親相姦、不倫、糞尿を用いるセックスなどを大々的に推奨しており、それを菩薩などのいわゆる神様たちが行なっているという内容だ。

マルキ・ド・サドがセックす仏教という意味でのタントラを知っていたかは不明だが、内容の酷似性は注目に値する。
タントラ思想が確立したのは西暦1000年程度で、(セックス教として弾圧されて)チベットへ仏教が逃亡したのがそのすぐ後である。
サドの時代は1780年前後に「肛門セックス」で有罪になってバスチーユに投獄、その後精神病院に入れられているときに様々な文学を書いている。
時代的にはタントラ思想に触れることは可能だが、キリスト教のもとでは、書物として『秘密集会タントラ』などが手に入ったかどうかはわからない。

人間の本質を深く思考するとセックスだけになる

せっくす仏教と佐渡が隔絶されていたとしても、同じ思想にたどり着いている点は注目に値する。人間の本質を分析すると、ここにたどり着くと考えてもいいのかもしれない。
人を拷問しながら、殺しながらのセックスほど素晴らしいものはない、というのが悪徳の栄えの中心テーマになっているのだが、それを実現するにあたって『権力』とは何か、『法律・ルール』とは何かを常に読者に投げかけてくる。そして、一般庶民とはどういう人間なのかを痛烈に批判・貶めている。さらに、権力者の腐敗がなぜ起こるのか、それも見事に書き込まれている。

殺人・犯罪は別にして、セックスの本質が見えてくる

人間はどうあるべきか、というテーマに対するアンチテーゼが『悪徳の栄え』とも読める一方で、自然の一部である人間の存在を前面に押し出しているのがこの本なのだが、西洋文化、特にキリスト教の『人間こそが自然の支配者』という考え方を完全に否定し、自然の一部である人間は、どう生きるべきかということを読者にどんどん投げてくる。
そして、幸せはセックス以外にはありえない、という結論をどんどん強固なものにしてくれている。
タントラを学びつつ、この『悪徳の栄え』を細かく読むと、いろいろなものが見えてくる気がしている。

 

瞑想の起源

人は、病気や怪我、肉体や記憶の衰え、親のボケに接して初めて、魂と物質の隔たりを感じるのだろう。

ブッダが、(他人の)傷病老死を目の当たりにして、魂と物質の隔たりを若くして見抜いたのは、やはりブッダという偉人が、経験を通さず物事の本質を見抜く人であったと思うしかない。

僕は幼い時からかなりの病弱で、この体の辛さから逃れるのに、心と体を切り離す癖のようなものが身に付き、心(魂)は常に静かでいつも同じで何も望まず、ただ、体を眺めているということを知っていた。

成長するに従って体力が付くと、とたんに肉体的な欲望が強くなり、心と体を分離できなくなった。肉体が心を支配してしまったように思う。

また、歳をとり、また、親のボケを目の当たりにして、心を分離することを試みている。

瞑想している時に、これはかつて子供の頃の心の分離、そのものであると思う。というか、子供の頃には全てがわかっていた。いや、心(魂)は初めから同じ事だけを知っていた。

物質を心から遠ざける事が、その事自体が魂の本質だということだ。

誰でも、それはわかっているが、体力のある若い時の自分がそれを見失うように、誰もが見失っている。

なぜ見失うのか、それは肉体が強いからに他ならない。

この文章でさえ、肉体の延長であって、本質的には魂ではない。魂ではないが、古代の偉人たちの行ったと同じように、僕は書き記すしかない。ただ、無心に書き記すしかない。
書きながら瞑想状態を維持する。
心の中の言葉ではなく、言語にせずに文字にする。

おそらく、僕が何を言っているかが分からないかもしれない。
物書きが絶好調だった頃、そう、もう20年も前だが、僕は心を空にして、仕事の文章が書けていた。心の中で言葉を作る事なく、目と指が勝手に文字を作り出していた。自分では眠ってしまったのに、朝になると素晴らしい文章が出来上がっていた。
この時、僕は子供の頃の心と体を分離していた時と同じだった。

瞑想は、それを教えてくれる。

古代インドの書物(バガヴァッド・ギーター)より

自分が地位や富を得ることの幸せは、他の誰かの富や権力を奪う不幸との裏表である。

人は、何かとてつもない出来事が身に降りかかるってはじめて、そのことについて考え始める。自分とは何か、人として何をするべきか、死によって終わりが来る人生にはどんな意味があるのか、考えるのである。

運命は決まっているのか?

瞑想と運命に関して、古代インドのバガヴァッド・ギーターでは、創造神クリシュナが武将アルジュナに、「(神である)私は何も約束しない」と言います。
つまり、何か目的を持って行動したとしても、それが実現するかどうかは人間には判らないということです。
過去の出来事を一生懸命に調べて自分を比べて、こうするべきだったというのは、実は意味のないことで、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのかというのは、何の法則性もないということです。

人間の作ったルールと運命

しかし、現実社会では受験をしたり資格を取ったりして、地位を確定していきます。この場合には何をすればどうなる、という法則がある程度成り立ちます。なぜなら、これは人間が決めたルールだからです。つまり、人間の決めたルールの中にいれば、ある程度の未来は約束されるということです。人間が決めたルールの中では、誰かの真似をしていれば、予想通りの結果に近づけます。それゆえ、この現代社会にはコピペ人間が増え、そのコピペ人間が自分たちに都合がいいルールを決めてそれを守っています。

その最たるものは官僚システムです。実社会とはほとんど関係ない「暗記術がメインの難問」に答えられた人間に、「権威があるから偉い」という地位を与えます。彼らこそが人間の決めたルールの中だけに生きている者たちで、コピペ以外の仕事はしません。

ルールと運命を混同している

そうした人間のルールの中にいる人たちは、ルールが運命だと信じています。そしてそれを生涯守り続けます。例えば、国民を騙してでも官邸を守るという官僚の行為は、実は官僚ルールを守っているということです。つまり、官僚ルールが壊れると、自分たちの運命が壊れてしまうのです。官僚のルールを変えられるのは、今は官邸です。つまり官邸が彼らの運命を決める神様になってしまっているのです。

しかし、運命は決定していない

官僚を例にとっていますが、実はそんなことをしたらそうなるという約束はありません。でも、例えば上司に楯突けば左遷させられる、という暗黙のルール(運命)があるではないですか。これはどうしたらいいのでしょうか。
そう、普通に楯突けば人間のルールに従って左遷させられます。
では、本当の神様の運命に近くにはどうすればいいのでしょうか。
それは、ギーターに書かれています。
『無我夢中でやることだけが私に近づく』
つまり、小さな画策や考えで行動すれば人間のルールに従ってしまいます。
でも、後先考えず夢中でやりぬくことだけが正しい道だと語られているのです。
この夢中でやり抜くことができるかどうかだけが、本当の運命に出会う手法だとギーターに書かれています。

museの瞑想でアトピーを克服

年末から2ヶ月以上、湿疹で悩んでいるんだ。
蕁麻疹として発症して、子供の頃の酷いアトピーが再発してしまった。

痒みで目が覚めてしまうので、連続して2時間以上の睡眠が取りにくい。
そして薬が原因だと思うが、直感的にいうと普段の2倍は疲れてしまう。ちょっと仕事をしてもひどい虚脱感に襲われて横にならないといられない。

museの瞑想をやってみる。

このグラフのように、湿疹が全身に広がっていると深い瞑想が保てない(グラフが低いほど瞑想が深い)。3:20前後に深くなれたが、4:10には完全に覚醒してしまっている(グラフが一番上のエリアに入っている)。ちなみに、湿疹がない時には覚醒することはまずないのだ。

日頃の訓練で、すぐにリカバリー(瞑想状態に戻す)ができているのは幸いだが、肉体に翻弄されている様がよくわかる。

瞑想は痒みさえも克服することができる

一方で、4:10前後の深い瞑想では、肉体の痒みが完全に客観視することができて、痒みを感じていても特にそれがストレスにもならない。それ以外の時間帯でも、この瞑想全体で言えば、一度もかゆいところをを触ることはなく、安定した状態を保っていると言える。

つまり、瞑想していない時には無意識に痒いところを触るか掻くかかしているのだが、瞑想状態では、体が勝手に動くことなく、掻こうとする衝動もない。これは、古代インドの聖典に書かれている『心が体をコントロールしている状態』に近く、瞑想の本来の目的、肉体(物質)に支配されない状態を作る、ということに近づいている。

痒みや痛みの中の瞑想こそが素晴らしい修行

そう思って今回の瞑想を省みると、何もない健康な状態よりも、気が狂うほどの痒みの中にいた方が、本来の瞑想の目的に近づけると思う。

むろん、痒みや痛みの中で修行するべき、瞑想するべき、という意味ではない。肉体を心がコントロールできるようにすることが目的であるからこそ、肉体が何らかの主張をしている(例えば痒み痛み、空腹、興奮状態などの)時に瞑想することが『(浄土に)近く』という意味では、重要な状態だと思うのだ。

猫のゴロゴロと瞑想の関係について

muse脳波計を付けて、猫を膝に乗せて、猫がゴロゴロ、それで瞑想してみました。

猫のゴロゴロで瞑想は深くなる

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猫のゴロゴロ声には癒し効果があると言われてるようです。
ということで、我が家の猫が膝の上でゴロゴロリラックスしているので、museで瞑想状態を計測してみました。

グラフで分かるように、ほぼ全体的にcalm状態が安定して続きます。neutralに一瞬入る(物が落ちた)も、すぐに瞑想に戻れました。
瞑想中は猫の頭をさする動作だけに集中できていて、非常にリラックスしています。

言葉で考えないことが重要だ

古代インド哲学には、言葉による志向の混乱というのがあるとされています。言葉は世の中のことをそのまま表すことができず、無理に言葉で考えようとすることが不安定を生じさせるとのことです。
猫との対話も、言葉よりも心のような気がするのは僕だけでしょうか。犬は人の言葉にストレートに反応しますが、猫は言葉以外のコミュニケーションがあるような気がします。

猫との対話は瞑想だ

猫は言葉を話しませんが、何か心が通じるものがります。犬との関係ともちょっと違った猫との対話は、かなり瞑想に近い気がします。犬と人間の対話は、人間同士に近く、猫と人間の対話は瞑想に近い気がします。

もっと瞑想を深くすることで、猫とのもミュニケーションも深くなるような気がします。

瞑想とは考えないことじゃない

瞑想とは、何も考えないことではありません。
そんなことはできないと、インド哲学でも仏教でも言われています。

瞑想とは、心の中で言葉を使わないこと

全ての間違いは言葉による、とインド哲学では言われています。
言葉は世の中のことを表すにはあまりに不完全だからです。

瞑想は、言葉で物事を考えることをやめる行為です。
瞑想を行うと、途中で考え事をしてしまいます。その時に、自分は考え事をしてしまったと気づくことが重要です。気づいたら、心の中で言葉を使うのをやめます。

それが瞑想です。