プチ断食と瞑想

プチ断食を日曜日からスタートしました。今週は撮影がないのでね。
湿疹がひどくて辛いのがきっかけですが、以前は、定期的に完全断食をよくやっていたので、まぁ、断食自体は辛くはないです。
でも、もうすぐ54歳なので、体をいたわる意味で、軽い断食をします。

方法:高カロリー食と添加物を食べない

今回の目的は、体の毒素を排出することにあります。そこで、断食の準備運動として、まず、添加物を完全排除して、薬漬けの体を休ませます。
食事は、白米と納豆、白米と生卵くらいにしています。
編集で頭をフル回転しなければならない時には、焼き芋を食べます。バナナも食べます。

食事回数:1日2食へ減食からスタート

初めの3日間は、上記の白米中心の食事です。3日目からは1食に減らそうかな。
日曜日(昨日)から総食物の量は、白米が小さな茶碗に2杯、卵1個、納豆2パック、焼き芋2本(200gくらい)。
今の所、極度な空腹はないし、めまいもしませんね。

明日からさらに減食し、瞑想を増やします

さて、今回は瞑想と断食の関連を意識してみます。正直、湿疹がひどいと瞑想が難しかったです。瞑想状態を長く持続できないのです。断食によってどれだけ集中できるか、そこがポイントですね。

後日、レポートします。

運命は決まっているのか?

瞑想と運命に関して、古代インドのバガヴァッド・ギーターでは、創造神クリシュナが武将アルジュナに、「(神である)私は何も約束しない」と言います。
つまり、何か目的を持って行動したとしても、それが実現するかどうかは人間には判らないということです。
過去の出来事を一生懸命に調べて自分を比べて、こうするべきだったというのは、実は意味のないことで、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのかというのは、何の法則性もないということです。

人間の作ったルールと運命

しかし、現実社会では受験をしたり資格を取ったりして、地位を確定していきます。この場合には何をすればどうなる、という法則がある程度成り立ちます。なぜなら、これは人間が決めたルールだからです。つまり、人間の決めたルールの中にいれば、ある程度の未来は約束されるということです。人間が決めたルールの中では、誰かの真似をしていれば、予想通りの結果に近づけます。それゆえ、この現代社会にはコピペ人間が増え、そのコピペ人間が自分たちに都合がいいルールを決めてそれを守っています。

その最たるものは官僚システムです。実社会とはほとんど関係ない「暗記術がメインの難問」に答えられた人間に、「権威があるから偉い」という地位を与えます。彼らこそが人間の決めたルールの中だけに生きている者たちで、コピペ以外の仕事はしません。

ルールと運命を混同している

そうした人間のルールの中にいる人たちは、ルールが運命だと信じています。そしてそれを生涯守り続けます。例えば、国民を騙してでも官邸を守るという官僚の行為は、実は官僚ルールを守っているということです。つまり、官僚ルールが壊れると、自分たちの運命が壊れてしまうのです。官僚のルールを変えられるのは、今は官邸です。つまり官邸が彼らの運命を決める神様になってしまっているのです。

しかし、運命は決定していない

官僚を例にとっていますが、実はそんなことをしたらそうなるという約束はありません。でも、例えば上司に楯突けば左遷させられる、という暗黙のルール(運命)があるではないですか。これはどうしたらいいのでしょうか。
そう、普通に楯突けば人間のルールに従って左遷させられます。
では、本当の神様の運命に近くにはどうすればいいのでしょうか。
それは、ギーターに書かれています。
『無我夢中でやることだけが私に近づく』
つまり、小さな画策や考えで行動すれば人間のルールに従ってしまいます。
でも、後先考えず夢中でやりぬくことだけが正しい道だと語られているのです。
この夢中でやり抜くことができるかどうかだけが、本当の運命に出会う手法だとギーターに書かれています。

自分より心の綺麗な人間を付き合うべき

心を綺麗にするには、自分より心が綺麗な人と付き合うしかない。
自分自身で自分を綺麗にするのはなかなか難しいからだ。
さらに、心が濁った人間と接していると、自分の心も濁ってしまう。

しかし、そうだとすると、自分より心が綺麗な人と自分が接すると、その相手の心が自分の濁りに応じて濁ってしまうのではないだろうか。

確かにその通りである。それでは相手に失礼であり迷惑だ。
どうしたらいいのか?

それには、自分の心がどれだけ濁っているのかを知る必要があり、相手と話すときにその濁りを出さないようにすることが肝要だ。
心の濁りとは何か。なかなか難しいものだ。

次回、インド哲学的に考えてみるtこにしよう。

タバコの葉と瞑想

古代からタバコの葉や香木が瞑想に入るためによく使われます。
現在の紙巻きたばこは、タバコの葉の有効成分よりも、燃焼材や包み紙が体に悪く、特に燃焼材は石油なので、よろしくないのです。

本当のタバコの葉は、火をつけて置いておくと火が消えてしまいます。
葉巻は良質なタバコの葉でできているので、瞑想の良きパートナーになります。
昔から作家や偉大な政治家は葉巻を好み、神がかった作品を生み出す時に葉巻を吸っていたというのは歴史を見ればよくわかります。
タバコの葉に含まれるニコチンは、鎮静効果があり、リラックス効果や癒しの効果があります。
お酒は気分が高揚し、飲みすぎると心をコントロールすることができなくなります。
一方のニコチンは冷静で静かな心を作り出します。ストレス社会の中でタバコが必要とされるのは、それなりの理由があるわけです。しかしながら、商業主義で作られた(特にアメリカ製の)紙巻きたばこは、たくさん吸わせるための燃焼材が、タバコの葉を無駄に消費させています。

電子タバコは瞑想の友と言えるか?

さて、最近流行りの電子タバコ(iQOSやGloなど)はどうでしょうか?
僕は葉巻の熱烈な愛好家で、タバコの葉の効果を楽しむことで、最高な心の状態を知ることができました。
それと比較すると、電子タバコは紙巻きたばこよりも葉巻に近いと感じています。日本製のはploomTechは、僕は全くダメで、葉巻と同じ効果があるかどうが判りません。むしろ紙巻きたばこに近い有害さを感じています。
一方の(アメリカ製ですが)iQOSとGloは、非常に素晴らしいと思っています。瞑想の前や執筆の前に吸うと非常に良い効果が現れます。

iQOSは非常に強いニコチンを感じ、そうだなぁ、ちょうどお酒で言えばテキーラってかんじでしょうか。Gloは優しいニコチン効果で、こちらの方が水割り的な感じがします。

電子タバコは葉巻の気分だ

ということで、電子タバコで瞑想してみると、非常にいい感じです。
どちらかというとGloが簡単で、だれでも瞑想のお供になると思います。
一方、iQOSはちょっと難しいタバコで、吸うスピードを調整しないと、強いニコチン酔いが襲ってきて、ぐったりしてしまいます。iQOSは吸うスピードに応じて内部のヒーターが過熱されるので、強く吸うと濃いニコチンになり、短時間で吸い終わってしまいます。カウンターが入っていて17回で終わるのですが、ゆったりと時間をかけて、過熱しすぎないように吸います。最長で6分間なので、一回の吸い込みと煙を吐く動作を15〜20秒間かけるのがベターなのですが、これがなかなか難しい。でも、この難しい動作が、むしろ瞑想に近いので、ぜひ、みなさんもiQOSで瞑想してみてください。

タントラと科学の融合

タントラ思想の根本は、古代インド哲学の『魂(心)が体(身体)に支配されている』という考え方に立っています。これは仏教にもヒンズー教にも共通する概念です。体の支配を脱した時を『解脱』『涅槃の境地』などとしています。

魂には感覚器がないので、物質である身体のセンサー(五感)を通して世の中を把握します。しかし、肉体はそれ自身が意思を持っているので、楽を求めたり気分次第で見えるもの聞こえるものへの感じ方が変わっていきます。例えば人参が嫌いな人にとっては『人参の味は不味い』と感じ、人参が好きな人は『人参の味は美味しい』と感じます。しかし、物質としての人参は同じもので、感覚も全く同じ味を感じています。しかし、それが心(魂)に届く時に『不味い』『美味しい』と変化してしまいます。この変化は、五感と心の間で生じています。インド哲学では過去の記憶と感覚が混じり合うところ(=現代風には脳)で差異が生じるとしています。その差異が生じる場所も、物質である肉体の一部分だとされています。

つまり、物事をどう感じて理解判断するかは、実は肉体が大きく作用するのです。
その肉体の作用(過去の記憶などで感じ方が変化してしまうこと)を避けるために瞑想によって、心と体の分離を体験しつつ、心が体をコントロールできるようにするのです。この考え方は、現代の科学でも語られていることに合致することが多いのに驚かされます。

しかし、こう書かれても、多くの人が、心と体の分離なんて体験しないと分からないというでしょう。まるで幽体離脱のようなオカルトですものね。

muse脳波計が見せてくれる世界には何があるのか?

さて、講釈はこのくらいにして、現代社会でも古代のインドの賢者が気付いたような、心と肉体が別のもであるという体験をするにはどうしたらいいのでしょうか?
muse脳波計は、長年修行を繰り返して正しい瞑想を習得した人の脳の状態と、我々の脳の状態を比べて、様々な指針を提供してくれます。

さて、タントラには『性』に関する考え方が多く含まれています。
性行為が肉体と心の切り離しに有効だと考えられているからです。
(タントラ的に)正しい性行為は、肉体の支配から心を解放してくれるとされています。

その時の状態をmuseで計測すると、まさに瞑想状態だと言えます。つまり、瞑想の訓練を繰り返すよりも正しい性行為をした方が簡単に瞑想状態になれるということです。

museの瞑想でアトピーを克服

年末から2ヶ月以上、湿疹で悩んでいるんだ。
蕁麻疹として発症して、子供の頃の酷いアトピーが再発してしまった。

痒みで目が覚めてしまうので、連続して2時間以上の睡眠が取りにくい。
そして薬が原因だと思うが、直感的にいうと普段の2倍は疲れてしまう。ちょっと仕事をしてもひどい虚脱感に襲われて横にならないといられない。

museの瞑想をやってみる。

このグラフのように、湿疹が全身に広がっていると深い瞑想が保てない(グラフが低いほど瞑想が深い)。3:20前後に深くなれたが、4:10には完全に覚醒してしまっている(グラフが一番上のエリアに入っている)。ちなみに、湿疹がない時には覚醒することはまずないのだ。

日頃の訓練で、すぐにリカバリー(瞑想状態に戻す)ができているのは幸いだが、肉体に翻弄されている様がよくわかる。

瞑想は痒みさえも克服することができる

一方で、4:10前後の深い瞑想では、肉体の痒みが完全に客観視することができて、痒みを感じていても特にそれがストレスにもならない。それ以外の時間帯でも、この瞑想全体で言えば、一度もかゆいところをを触ることはなく、安定した状態を保っていると言える。

つまり、瞑想していない時には無意識に痒いところを触るか掻くかかしているのだが、瞑想状態では、体が勝手に動くことなく、掻こうとする衝動もない。これは、古代インドの聖典に書かれている『心が体をコントロールしている状態』に近く、瞑想の本来の目的、肉体(物質)に支配されない状態を作る、ということに近づいている。

痒みや痛みの中の瞑想こそが素晴らしい修行

そう思って今回の瞑想を省みると、何もない健康な状態よりも、気が狂うほどの痒みの中にいた方が、本来の瞑想の目的に近づけると思う。

むろん、痒みや痛みの中で修行するべき、瞑想するべき、という意味ではない。肉体を心がコントロールできるようにすることが目的であるからこそ、肉体が何らかの主張をしている(例えば痒み痛み、空腹、興奮状態などの)時に瞑想することが『(浄土に)近く』という意味では、重要な状態だと思うのだ。

人生が辛い(弱音)

昨年末から蕁麻疹がひどく、もう、2ヶ月以上も苦しんでいる。
瞑想もなかなか上手くいかず、心身ともに辛いのである。

特に夜が怖い。ひどい痒みは寝床によこになると襲ってくるのだ。
それゆえ、長い睡眠がとれない。痒みに叩き起こされて薬を塗る作業に追われる。あまりに痒みがひどい時にはシャワーを浴びて全ての塗り薬を洗い流して、新しく塗る。

ストレスが原因だろう

現在、非常に中途半端なポジションになっている。雇われ社長と雇われ理事長をやっているのだが、どうにもお金の流れが悪く、人間関係も悪化しつつある。
僕の仕事自体は芸能コンテンツ(テレビやラジオの番組、映画)の製作だが、これは長年やってきているので、むしろどんどん良くなっている。しかし、その制作費の流れが悪い。

お金のストレス、小生は非常に弱い。これは昔からである。
しかし、今回は、それだけでない。

悪魔の存在を感じる

仕事では映画の録音部というのがあって、これが非常に好きだ。
録音の仕事をしていると、女優や俳優のセリフの合間に、不思議な声を聞くことが数多くある。特に、その場にはいない子供の声を聞くことが多い。

去年のちょうど今頃、外部役員をやっていた建築会社が倒産した。まぁ、小生の責任ということではないのだが、大きな倒産で、人生が狂ってしまったお客さんが何人もいた。業績が悪かったわけではなく、そうだなぁ、小生が関わることで、より大きな仕事ができると思い込んで、それが原因で転んでしまったんだろうと、まぁ、そう思える。

そして、今年も、似たような事態なんじゃないかと思い始めた。
好調だった会社内で内部分裂があって、僕が入る事で分裂してパワーダウンしたものを補う形になった。そして、より仕事を大きくしようとして、資金繰りが悪くなってしまったという流れだろう。もちろん、これを乗り切れれば大成功ということになる。

しかし、悪魔を感じ始めているのだ。

人生、何をやってもダメな時期というのがある。今、それに突入しているような気がする。人生で2回目だ。いや、3回目だ。何をあがいてもダメなのだ。

小生と関わる人に、悪さをする悪魔であり、小生を苦しめ続ける悪魔だ。

どうしたらいいのだろうか?