muse脳波計をいろいろ使っています。
官能状態(性交中)の脳波も測ってみました。いえいえ、女性の脳波です。
性交中の脳波は完全に瞑想と同じ
素晴らしいですね。
快感の高まりとθ波が一致します。最初はα波の上昇が見られて、性的な上昇に連動してθ派が顕著に上がります。
タントラの中で、女性の恍惚状態が瞑想に一致するという記述があります。今から1500年近く前の記述です。
脳波計のない時代に、瞑想している状態と恍惚状態が同じと分析していたのですからすごいですね。
さらに、研究を進めます。
muse脳波計をいろいろ使っています。
官能状態(性交中)の脳波も測ってみました。いえいえ、女性の脳波です。
素晴らしいですね。
快感の高まりとθ波が一致します。最初はα波の上昇が見られて、性的な上昇に連動してθ派が顕著に上がります。
タントラの中で、女性の恍惚状態が瞑想に一致するという記述があります。今から1500年近く前の記述です。
脳波計のない時代に、瞑想している状態と恍惚状態が同じと分析していたのですからすごいですね。
さらに、研究を進めます。
これまでカーマ・スートラの新たな解説本を書くために、バートン版の英語訳の『kama sutra』と、おそらくその日本語訳と思われる大場政史氏の『カーマ・スートラ』をベースにしてきました。
ところが、数多くの誤解や誤訳にぶつかったので、テキストを増やしました。
今更ですが、平凡社の『完訳 カーマ・スートラ』を購入して(再購入かな)、先程、電子化してiPadとiPhoneに入れましたよ。
というか、パラパラ読んだだけでも、かなりの優れた翻訳と解説ですね。
あ〜、僕が解説しなおさなくてもいいかもしれない。と思うくらいによく出来ています。
しかも、この本は、元のサンスクリット語であった詩篇の翻訳も掲載されている。そう、詩篇である事が非常に重要なんです、古代インドの書物は。
バートン版が、とにかく誤解や誤訳が増えてしまう大きな理由は、英語にあります。英語には女性名詞男性名詞の区別がないので、日本語と同様に主語を間違えやすい。というのは、サンスクリット語というのが、日本語の構造にちょっと似ていて、主語が不確定なんです。そこで、女性男性名詞を見分けて、主語を推測します。日本語が敬語を利用するのに似ています。
でも、バートンはたぶん、その能力が足りていなかったんだなぁ。
さて、ここ一週間ほどカーマ・スートラの翻訳に没頭してきましたが、前述のようにバートン版(英語)がベースで、かなり苦労しました。なので「意訳する」という体裁で書き進めてきました。
岩本版と僕の意訳を比べてみるとどうでしょうか。
うんうん、ほとんど一致。よかった!
ただ、岩本版の日本語名称(半球の体位など)は、かなり素晴らしいなぁ。ただし、元のサンスクリット語の固有名詞をカタカナにしている部分などは、日本語で読むと呪文的になってしまっていて、分かりにくい部分もあります。翻訳本なので、これは仕方ないですね。
いずれにせよ、非常に完成度が高い翻訳本です。元はフランス語版のカーマ・スートラだそうです。
僕は、カーマ・スートラを翻訳本ではなく、実用本として使えるように編纂し直します。
また、後続の「タントラ」や「理趣経」「秘密集会タントラ」とも比較しながら、カーマ・スートラから発展した哲学や思想・宗教で新たに発見されたであろうことも織り込みたいと思っています。
カーマスートラの総論部分を翻訳しています。
古代インド哲学における性愛の重要さがわかってきます。
16分間の瞑想を行いました。
81%の瞑想状態が検出されました。
明後日の日曜日には、タイのお坊さまの瞑想会に参加してご指導頂きます。
muse脳波計は役だったかな? それが分かると思います。
There is a translation function (button) on side menu, so please utilize.
カーマスートラというと、64種類の体位ばかりが有名です。
でも、前に書いたように64種類も体位はありません。女性が身につけるべき(性的な)教養が64種類あるというだけです。
でも、本書で紹介されている対位は、AV監督や男優からも合理的で優れていると称されます。
逆に日本の『四十八手』は、ご存知のように浮世絵の創始者とも言われる菱川師宣の考案とされた、絵画の中のポーズ集です。つまり、四十八手はビジュアル的、絵画的、文学的(呼称が面白い)のであって、実際にやってみても、どちらかというとコメディーというか、馬鹿馬鹿しいことは否めません。
カーマスートラで紹介されている体位は、非常に体系化されていて、男女の体格差(性器サイズ)からどれが適していて、さらには体格差を補うための補正方法など、かなり科学的かつ体系的に書かれています。しかも、国土の広いインド各地の風習などにも言及されていて、民族的な違いによる体位の活用方法についても研究されています。
先日も週刊ポストからコメントを求められたのですが、その企画内容は、大昔のベストセラー『HOW TO SEX』の世界から抜けていません。つまり、「こういう時は、こうしろ」「Gスポットはここで、こう攻めろ」というような、非常に紋切り型です。
カーマスートラでは、最低でも9種類の男女の組み合わせがあり、それぞれで最適なHOW TOが違うと書かれています。
経験からも、これは非常に正しい分類で考察だと思います。
でも、日本のHOW TOはバリエーションが少なく、せいぜい、上付き、下付き、くらいです。
そして、その男性考案のHOW TOがダメなら女医に聞く、AV女優に聞くとなってしまいます。
なんで女医がSEXの正しいHOW TOが語れるのか、実は意味不明なんですよね。というか、女医さんたち(数名しかいない)のご意見は、男性の認識が間違っている、という点では正しくとも、では何をするべきかという点に関しては情報不足が否めず、結局、自分の経験くらいで語っているに過ぎません。
さらにAV女優さんたちは、演技で食べています。相手にする男優は少数です(毎回同じ人をSEXする)。つまり、出演経験が豊富でもSEXの回数が多くても、毎回同じやり方なので、知識豊富にはなりようがないのです。
だから、女性たちが発信してくれているHOW TOも、その人の好みを言っているに過ぎず、日本人の紋切り型から抜け出していないのです。
本当は、様々な組み合わせ(体型の差だけでなく、年齢差、経験の差、民族の差、身分の違いなどから、体系的(科学的)に検討しないと、答えは出ないということになります。
カーマスートラでとかく読み飛ばされているのが、体位解説の後ろの章です。
よく読まれているのは、体位と前戯の話です。しかし、重要なのは挿入技法です。
『男のなすべき行為』として書かれているので、若い時の私は挿入技法だと解りませんでした。
以上が、男性のテクニックとしてカーマスートラに書かれている技法だ。
これは、前回解説した体位と組み合わせて行う。次回は、女性の技についての記述の翻訳と解説をしたい。
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前回、カーマスートラの「体位」の紹介をしました。
今回は、男性の行う前戯やマナーを紹介します。
出典は、日本語版『カーマ・スートラ』(訳:大場政史)と、英語版『Kama Sutra』(リチャード・バートン)です。
基本的には英語版からの意訳です。
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突然ですが、瞑想やヨガの究極の目標がエクスタシーだということをご存知でしょうか?
どうも、そうらしいので、調べてみました。
wikiによりますと、
『エクスタシー(英: ecstasy)とは、
快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。忘我。
宗教的体験における神秘的な心境。予言、幻想、仮死状態などをともなうことも多い。
脱魂とも。
語源はギリシャ語のέκστασις(ekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、魂がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている』
つまり、瞑想やヨガ(身体動作)の目標は、エクスタシーに達することとなります。
もちろん、ヨガで美しくなる、健康になるという目標を持つことも素晴らしいことですよね。なぜなら、美や健康がエクスタシーを増進する(早く近づく)からですね。
瞑想の役割は何でしょうか?
古代インドの経典『バガヴァッド・ギーター 』の中で創造神クリシュナ(千手観音を想像してください)は、
『瞑想が、一番早く近づくことができる』
と断言しています。
つまり、瞑想でエクスタシーに達するのが一番いいと言っています。
なるほど。
では、ヨガ(身体動作)については何と言っているでしょうか。
実は、非常に酷いこと、辛辣なことを言っています。
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁ、そこまで言わなくてもいいのに。
では、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガに関する最古の教典)はどうでしょうか?
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁぁ、同じ事を言っています。
でも、ギーター の中でクリシュナは、後ろの方で、こう言っています。
『無駄ではない。健康体操・美容体操も、いつかは(エクスタシーに)達する』
ああ、良かったですね。
クリシュナは、どういう意味で『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』と言ったのでしょうか?
瞑想やヨーガの目標は「悟ること」です。つまり、それはエクスタシーの向こう側の世界です。
では、ヨガ(体操)で健康になること、美しくなる事のどこに問題があるのでしょうか?
『美しくなる健康になるための行為は、肉体に対する投資だ。肉体は常に変化し滅びへ向かう。それが心の不安定さを生み出す。するとエクスタシーは遠退く』
ただし、健康体操や美容体操を否定しているわけではありません。健康になりたい、美しくなりたいということのためには、身体動作のヨガ(健康体操や美容体操)は素晴らしいと書かれています。
しかし、こうも書かれています。
『「健康体操・美容体操をすれば、心も浄化される、瞑想ができる」と言う人は偽物だ。そう言う人に限って、組織を作り金儲け(必要以上のお金を稼ぐ)をしようとする。彼の目標はお金であって、他人の幸せ(エクスタシー)ではない。そういう人間に従うのは間違っている』
そんな事を言われても困りますよね。
『悟るため(エクスタシーのため)のヨガ(体操)を実践するのは、瞑想と同じように素晴らしい価値がある。それが本当のヨーガである。ヨーガの結果として健康になる、美しくなるのは褒美であり、副産物である。だが、褒美を目標にしてはいけない』
なるほど、ヨガ(体操)が悪いのではなく、実践する心構えが重要だという事ですね。
でも、実際にはどうしたらいいのでしょうか?
『(エクスタシーを知る)ヨーガを教える者は、相手と自分の区別がない(忘我)。教えた事に対する対価すら欲しがらない。なぜなら、自分と他人が同じになる事がエクスタシーだからだ。だから、貴方は、指導者と貴方が生活に困らないための最小限の布施をすればよい。その関係が、エクスタシーへの最短の道である』
ヨーガの実践には指導者が欠かせないとギーター でもヨーガ・スートラでも語られています。その指導者の見極めは、上記のような態度にあると言えますよね。
逆の言い方をすれば、ヨガ(体操)の指導者こそが、エクスタシーを求める純粋な心が必要だという事であります。
さて、何度もエクスタシーという言葉が出てきました。でも、一体、どんな事なのでしょうか? もちろん、それを知る事は悟りを開くという事であります。
しかし、古代の書物では、このように表現されています。
『スポーツや戦争で仲間と一体感を得た時、音楽で大勢が1つの心になった時、同じ美しい景色や絵を見た時に皆が同じように感動している時、(タントラでは)男女が合一して1つに溶け合うことを感じている時、それが(一瞬の)エクスタシーである。このエクスタシーを永遠に続けるための行為がヨーガである』
なるほど、考えてみるに、一瞬のエクスタシーを知らなければ、永遠のエクスタシーはわからないということだと思います。だから、ヨガ(体操)でも瞑想でも、一瞬のエクスタシーを大切にして、それを持続するための訓練が必要だという事なんですね。
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(今回も長文です!)
古代インドには、様々な哲学や宗教宗派がありました。
全てに共通しているのは生命をテーマにしているということです。
西洋が神と人間の関係をテーマに、様々な宗教や芸術が発展したのに対して、インドでは生命と宇宙の関係を考えてきたということです。
タントラもカーマスートラも、性を中心に書かれた書物です。
タントラは「性の宗教学」であり、カーマスートラは「性の作法学」ということができます。書物としての成立はカーマ・スートラが先(西暦400年代)で、タントラ経典の方が後(西暦700年頃)です。
実は、カーマスートラという教典は、インドでももっとも古い書物になります。もちろん、思想としては古代インド哲学(始まりは紀元前1500年〜1000年くらい)があり、その哲学・宗教観を書き記したとされるマハーバーラタ(महाभारतम् Mahābhārata)は、紀元前500年くらいに書き始められて西暦400年に完成したとされています。ブッダの入滅が紀元前500〜400年くらいなので、入滅頃にマハーバーラタが書き始められて、完成する頃(西暦400年くらい)にカーマスートラも完成したということになります。
一方、紀元前500年くらいから仏教文化が花盛りになると同時に、国教としての地位を奪われたバラモン教がヒンドゥー教(大衆化したバラモン教)に変化し始めます。西暦400年くらいに、いまのヒンドゥー教の形になります。
お、また西暦400年が出てきましね。
その後、地位を脅かされる仏教がヒンドゥー教の教義(菩薩や観音などの神様)を取り入れて密教になります。これが西暦600年くらいです。それでも仏教の地位は低下の一途なので、西暦700年セックス仏教が始まります。セックス(タントラ)仏教が栄えます。
結局、そういった(西洋文化から見てふしだらな)タントラ仏教は、西暦1193年にトルコ(イスラム)の侵攻を受けて寺院や仏教大学が破壊され、ついにはインド仏教は壊滅してしまいます。インド(のタントラ)仏教はチベットへ逃げてチベット仏教になります。
さて、タントラの成立時(西暦700年頃)には、すでに古典としてカーマスートラが存在しています。カーマスートラはさらに発展を続けてカーマシュートラという一連の文献になっています。
実は、タントラの中にカーマスートラの記述は、僕は見つけられていません。でも、当然のことながら、タントラはカーマスートラの影響を受けているでしょう。
タントラ思想に関しては、このブログでも何度も出てきて、『タントラに関する情報』にまとめてありますよ。
さて、具体的なタントラでは、女性のエクスタシーの極致こそが涅槃であり、男性は射精せずに女性のエクスタシーを介して涅槃へ達せよとなります。
では、タントラではどうやって「女性のエクスタシーの極致」を得ればいいと考えたのでしょうか。その手がかりは、当然のことながらカーマスートラにあると考えるのが自然ですよね。
つまり、タントラの使われる性技は、カーマスートラを参考に練り上げられているはずです。逆に言えば、タントラの研究者(考案者)は、当然、古典であるカーマスートラの技を試しているはずです。
さて、そのカーマスートラの中身はどんなものでしょうか? 僕がカーマスートラを初めて読んだのは今から30年ほど前の20代前半だったと思います。もっと前かな? 最初に読んだ感想は、面白くない本だなぁ、エッチな記述が少ないなぁ、というものでした。
内容は非常に論理的です。地理学的な側面も強く、インド各地の性文化の研究書にもなっています。文中には様々な学説も書き並べられていて、比較文化の書物としても非常に優秀です。50歳を超えてから読むと、これほど機知に富み、深い本は他にないかもしれないと思えます。性技に関しても、各々たった2行程度の中にすごいことが書かれています。
さて、その性技をいくつか紹介します。
例えば、セックスの相性は9種類が挙げられています。性器のサイズを男女共3段階に分け、その組み合わせを研究しているのです。
カーマスートラの体位は64通りと言われますが、実は本文中には、僕が数えた限り次のようになります。
カーマスートラに記載されている体位を『カーマ・スートラ』(訳:大場政史)の日本語表記と、英語版『Kama Sutra』(リチャード・バートン)の記載を併記しました。
なお、特に記載のない場合は、基本は男性が上か横の体位です。
以上が、カーマスートラに出てくる体位です。ただ、お分かりのように、23番以降は体位ではなくバリエーションです。
つまり、俗に64種類の体位と書かれていますが、64がインドの縁起がいい数字なので、そう書かれているだけか、誰かが誤訳したのだと思います。
カーマスートラで女性が男性を喜ばせる技として64種の芸技があるとされ、これは音楽や作詞やマッサージなど64種が挙げられています。
つまり、カーマスートラの性技(体位)としては、上記22種程度だと思います。
ただ、これだと女性が上になるポーズがありません。この点についてカーマスートラは、女性が男性のように振る舞う、女性が男性のポジションにつく、とあります。本文に記載はありませんが、理屈上で上記の体位で女性が上になってもできるのは、
1(両脚を広げて男性の上に座る。普通の騎乗位。女性が膝を床に着く)
3(カエルのような格好で男性の上に座る=体育座り)
4(女性が上で、男女共両脚を伸ばす)
6(4の状態で女性が腿を締める)
7(4の状態で女性が男性の片脚を両脚で絡める)
8(4の状態で膣を締める)
9(女性が脚を前方へ投げ出して男性の上に座る)
10(女性が両脚を男性の肩に乗せた姿勢で座る)
11(女性が正座で男性の上? できるかなぁ?)
12〜14は、前後180度開脚っぽいですね。できるかなぁ。
15は騎乗位で女性が男性に胸を合わせる。抱きつく感じかな。
16も、できなくもないかな。動きにくいけど。
17男性の上であぐら。動きにくそう。
21は、女性を壁に押し付けて挿入かな。
いずれにせよ、全部足しても64種にはならないですね。
さて、タントラに使われる体位はどれでしょうか? タントラの思想では、どれか1つに決めない、ということです。どれでもいい。ただ、長時間の性交ですから、自ずと体が楽な体位しか選べないですよね。
実は、カーマスートラには、体位だけでなく、挿入の技が詳しく書かれています。これは、非常に機知に富んでいます。角度、どこを擦るか、などなど。こちらの方がタントラに適していると思います。
この点は、次回に。
日本人に一番有名な仏教のお経といえば「般若心経」だと思います。
瞑想に般若心経を使う人もいると思います。
むかしブームになって、256文字でできたこのお経を暗記して瞑想するのも流行りましたし、現在でも写経が人気ですね。写本自体が瞑想だとする考え方もあります。
般若心経の解説本もたくさんあります。僕も高校生の時に読んで、仏教は凄いなぁ、と思ったものです。
般若心経の原文はサンスクリット語で書かれています。それを西暦649年三蔵法師が翻訳して中国へ持ち帰ったというのが定説です。ポイントは、サンスクリット語が中国に翻訳された段階で、ちょっと意味が不明瞭になってしまっていることです。つまり、中国語になる時にむずかしくなってしまっているのです。もともとブッダが作った仏教は、誰でもわかり易いというのが特徴です。ですから、元のサンスクリット語の方が意味が明確なのです。
まず、この般若心経の有名な一節「色即是空、空即是色」というのは、原文のサンスクリット語とちょっと違います。中国語の「色即是空・空即是色」を訳すと「肉体や精神(色)は、つまり(即)、無(空)であり、無(空)は、つまり(即)、肉体や精神(色)だ」となります。
日本語に意訳すると「色(肉体や精神)は、すなわち、無である。無であることは、すなわち、色(肉体や精神)だ」となります。2つのことが逆さまにしても同じ、みたいな訳です。かなり意味不明です。ここが般若心経の難しさだと言われています。
元のサンスクリット語を正確に中国語にすれば、「色是空、空即是色」と書けます。
つまり、サンスクリット語の原文には最初の「即」がないのです。
うわ〜、お坊さんが偉そうに「色即是空!」なんて禅問答をしている映画のシーンがありますが、あれって原文を知っていると、恥ずかしい〜、って話です。
(ちなみに中国の「是」は英語の「is」です)
サンスクリット語の原文「色是空、空即是色」を日本語にすると、
「色(肉体や精神)が空(宇宙)の状態である(ことを知れば)、すなわち、空(宇宙)が(自分の)色(肉体や精神)だ」と訳せます。
それでも「空」は、ちょっと意味不明ですね。
でも、インド哲学が分かっていれば、宇宙全体と人の魂は同一であって、もともと同一であったことを忘れてこの世にいる人間は、宇宙と自分が同一だと理解することが悟りだ、という根本思想が思い浮かびます。
インド哲学が仏教の前に存在し、そのインド哲学を庶民にわかりやすく説いたのが仏教であることを理解していれば、「色是空、空即是色」というのが、上記のインド思想を語っているということだと解釈するのが自然だと、私は考えますし、サンスクリット語の原文も、そういう記述になっていると思います。
そうしたことを踏まえて、もう一度「色是空、空即是色」を意訳すると、
「人の本質(肉体や精神)は、宇宙そのものと同一だ。そう考えると、この世は自分の肉体や精神の延長である」
となり、インド哲学の思想そのものを表していることになります。
そう意訳していい証拠は、その前文にあります。
前文は「照見五蘊皆空、度一切苦厄」です。
(色不異空、空不異色もありますが、ちょっと割愛)
照見とは、主語がこの前文に出てくる「観自在菩薩」です。「観自在菩薩が照見した」、と訳します。照見というのは、明らかに見た(悟った)、という過去形です。
「五蘊皆空」がその目的語です。中国語は英語に近い文法ですね。正確には「五蘊(是)皆空」という目的節です。関係代名詞のthatの省略みたいです。
まあ、文法はさておき、五蘊とは仏教の中でいう人間の本質のことです。肉体だけでなく、感じることとか考えることなどの5つの要素で人間ができていて、お釈迦様は、その五蘊が人間の本質だと語っています。
中国語版の般若心経の「五蘊皆空」は「五蘊(人の本質)は、皆、空だ」と訳せますね。
つまり、「照見五蘊皆空」は、「(菩薩様が)人間の本質はみな空だと悟られた」と、中国語の般若心経からは訳せます。本当でしょうか?
さて、この「照見五蘊皆空」ですが、これがまた、サンスクリット語では、ぜんぜん違うのですね。
サンスクリット語では、
「菩薩様が、(人間の本質=色は)五蘊であると悟られた。さらに、その五蘊は空である、と悟られた(照見した)。」
という2つの文章になっています。
2つの文章でも中国語の1文でも同じじゃないの、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
まず、菩薩様は、人間の本質は5つの集まり(お釈迦様の説いた五蘊)だと悟った、という事実(過去形)が書かれています。ですから、人間の本質が空だ何もない、と言っているわけではないのです。
最初の文は、人間の本質は5種類に分類でき、人間の本質は明らかに存在するものである、ということを先に認めよう、という仏教の基本、インド哲学の基本を語っています。
そして、後ろの文は、その人間の本質である5つの要素それぞれは違って見えるけれども、それぞれ1つ1つはそれぞれ「空」に属する、と読みます。
これはインド哲学を知っていると分かり易い話です。人間を構成する要素は、インド哲学の学説では様々あり、ブッダはそのうちの「五蘊」を選択しています。そして、その人間の本質の各要素は、そもそも宇宙(空)から生じているという思想です。
さらに、その後ろの「度一切苦厄」は、
「菩薩様は、(そのことによって)、度一切苦厄(すべての苦悩を超えられる)と、悟られた(照見した)」
となります。
そのことというのは、「人間の本質(五蘊)が存在し、それが空から生じていること」です。それを理解できれば、「一切の苦厄を超(度)えられる」と読みます。
(サンスクリット語って、数学の分配法則のように、主語が、後ろの文の文頭に補いながら読み進めるのです)
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
ここまでサンスクリット語とインド哲学から意訳してみます。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」
菩薩様(観自在菩薩)が、深く修行をして極楽浄土に入った時、
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」
(菩薩様は)、人間の本質が5つであることをまず悟った。そして、その人の本質とは宇宙の原理そのものだと悟った。この2つが分かった時に、すべての苦しみから解放されると悟った」
「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
舎利子(ブッダの弟子)よ(先ほどのことが分からないだろうから説明しよう)、人間の本質は宇宙の原理と違うものではない。また、宇宙の原理は人間の本質と違うところがない。つまり、人間の本質は宇宙そのものである。だからこそ、宇宙の原理を自分の根本(本質)と理解せよ」
となります。
「舎利子よ」の部分で、「先ほどのことが分からないだろうから説明しよう」と補ったのには、理由があります。
これは古代インド哲学の記述方法に従っています。ウパニシャッド(最古の経典)でも、ヨーガ・スートラでもバガヴァッド・ギーター(マハー・バーラタ)でも、インド経典の書き方として、まず、「〜は〜だ」と言い、分からない相手に対してその後でたくさんの例示をします。ですから、般若心経も、まず先に答えを言い、その後ろに、相手が分かるまで例示を繰り返している、と読むべきです。これはインド式の経典の一般的な書き方なのです。
さて、般若心経の後半は、呪文だらけで、これもよく分かりません。
こちらについては、また、別に書きますね。
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