マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を読み進むとともに、人間の本質は、やはり悪なのかと思えてくる。
一方で、インド哲学的な人(物)の三元素である「サットヴァ」「ラジャス」「タマス」で考えると、この世の中はラジャスで多く形成されているのだし、富や名声がラジャスに由来するのだから、王族・貴族・法王などがラジャス的欲求の中で、自分たちの快楽のために他人を殺し続けるのも、当然と言えば当然なのだろう。ましてやレイプや拷問は、それに至る過程であり、手段として描かれている。
また、本書では特にローマ・カトリックを痛烈に蔑んでいる。例えば、聖書には規定されていない教義で私服を肥やしているという批判だ。
しかし、現実問題として、
1:悪徳は人に快楽を与えてくれる。
2:嘘は人間関係を発展させる。
3:虚栄はビジネスを推し進める。
本書では、これを悪徳哲学として普遍化している。主人公のジュリエットが出会う悪徳の人々は、それぞれ別の生き方をしているにも関わらず、すべて同じ哲学・思想を持っている。何度となく、出会うハレンチな人間が、同じような試金石をジュリエットにぶつけてくるのだが、毎度毎度、彼女は認められるのである。
ヨーロッパの暗黒時代の繁栄と思うなかれ
この本がヨーロッパの暗黒時代を色濃く反映していることは事実だろう。そしてフランスにおける民主革命を背景に、権力者を痛烈に批判するものであることも事実だろう。
しかし、これをヨーロッパの出来事と考えるのはどうか。
日本でも、つまり東洋でも同じではないのか。
権力、悪徳、ハレンチ、それが人間の本質だということは、否定できない。
それでいて、古代インド哲学ある、万物共通の魂という概念をどう位置付けるか、そこが僕の今後の課題になりそうだ。
いずれにせよ、性をどう考えるかがポイントだ。