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神秘主義とエクスタシー(脱我) mysticism & ecstacy

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突然ですが、瞑想やヨガの究極の目標がエクスタシーだということをご存知でしょうか?
どうも、そうらしいので、調べてみました。

wikiによりますと、

『エクスタシー(英: ecstasy)とは、
快感が最高潮に達して無我夢中の状態になること。忘我。
宗教的体験における神秘的な心境。予言、幻想、仮死状態などをともなうことも多い。
脱魂とも。
語源はギリシャ語のέκστασις(ekstasis、エクスタシス、外に立つこと)で、魂がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められている』

瞑想でエクスタシー!

つまり、瞑想やヨガ(身体動作)の目標は、エクスタシーに達することとなります。
もちろん、ヨガで美しくなる、健康になるという目標を持つことも素晴らしいことですよね。なぜなら、美や健康がエクスタシーを増進する(早く近づく)からですね。

瞑想の役割は何でしょうか?
古代インドの経典『バガヴァッド・ギーター 』の中で創造神クリシュナ(千手観音を想像してください)は、
『瞑想が、一番早く近づくことができる』
と断言しています。
つまり、瞑想でエクスタシーに達するのが一番いいと言っています。
なるほど。

ヨガ(身体動作)はダメなの?

では、ヨガ(身体動作)については何と言っているでしょうか。
実は、非常に酷いこと、辛辣なことを言っています。
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁ、そこまで言わなくてもいいのに。

では、『ヨーガ・スートラ』(ヨーガに関する最古の教典)はどうでしょうか?
『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』
ありゃぁぁぁ、同じ事を言っています。

でも、ギーター の中でクリシュナは、後ろの方で、こう言っています。
『無駄ではない。健康体操・美容体操も、いつかは(エクスタシーに)達する』
ああ、良かったですね。

目的はエクスタシーである

クリシュナは、どういう意味で『健康体操、美容体操はヨーガ(エクスタシーに達する道)ではない』と言ったのでしょうか?

瞑想やヨーガの目標は「悟ること」です。つまり、それはエクスタシーの向こう側の世界です。
では、ヨガ(体操)で健康になること、美しくなる事のどこに問題があるのでしょうか?

『美しくなる健康になるための行為は、肉体に対する投資だ。肉体は常に変化し滅びへ向かう。それが心の不安定さを生み出す。するとエクスタシーは遠退く』

ただし、健康体操や美容体操を否定しているわけではありません。健康になりたい、美しくなりたいということのためには、身体動作のヨガ(健康体操や美容体操)は素晴らしいと書かれています。
しかし、こうも書かれています。
『「健康体操・美容体操をすれば、心も浄化される、瞑想ができる」と言う人は偽物だ。そう言う人に限って、組織を作り金儲け(必要以上のお金を稼ぐ)をしようとする。彼の目標はお金であって、他人の幸せ(エクスタシー)ではない。そういう人間に従うのは間違っている』
そんな事を言われても困りますよね。

良き指導者を見極めよ

『悟るため(エクスタシーのため)のヨガ(体操)を実践するのは、瞑想と同じように素晴らしい価値がある。それが本当のヨーガである。ヨーガの結果として健康になる、美しくなるのは褒美であり、副産物である。だが、褒美を目標にしてはいけない』

なるほど、ヨガ(体操)が悪いのではなく、実践する心構えが重要だという事ですね。
でも、実際にはどうしたらいいのでしょうか?

『(エクスタシーを知る)ヨーガを教える者は、相手と自分の区別がない(忘我)。教えた事に対する対価すら欲しがらない。なぜなら、自分と他人が同じになる事がエクスタシーだからだ。だから、貴方は、指導者と貴方が生活に困らないための最小限の布施をすればよい。その関係が、エクスタシーへの最短の道である』

ヨーガの実践には指導者が欠かせないとギーター でもヨーガ・スートラでも語られています。その指導者の見極めは、上記のような態度にあると言えますよね。

逆の言い方をすれば、ヨガ(体操)の指導者こそが、エクスタシーを求める純粋な心が必要だという事であります。

結局、エクスタシーって何?

さて、何度もエクスタシーという言葉が出てきました。でも、一体、どんな事なのでしょうか? もちろん、それを知る事は悟りを開くという事であります。
しかし、古代の書物では、このように表現されています。

『スポーツや戦争で仲間と一体感を得た時、音楽で大勢が1つの心になった時、同じ美しい景色や絵を見た時に皆が同じように感動している時、(タントラでは)男女が合一して1つに溶け合うことを感じている時、それが(一瞬の)エクスタシーである。このエクスタシーを永遠に続けるための行為がヨーガである』

なるほど、考えてみるに、一瞬のエクスタシーを知らなければ、永遠のエクスタシーはわからないということだと思います。だから、ヨガ(体操)でも瞑想でも、一瞬のエクスタシーを大切にして、それを持続するための訓練が必要だという事なんですね。

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タントラとカーマスートラ(欲望の経典)Kāmasūtra(体位説明)

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(今回も長文です!)

古代インドには、様々な哲学や宗教宗派がありました。
全てに共通しているのは生命をテーマにしているということです。
西洋が神と人間の関係をテーマに、様々な宗教や芸術が発展したのに対して、インドでは生命と宇宙の関係を考えてきたということです。

タントラ(तन्त्रTantra)とカーマスートラ(कामसूत्र Kāmasūtra)の関係

タントラもカーマスートラも、性を中心に書かれた書物です。
タントラは「性の宗教学」であり、カーマスートラは「性の作法学」ということができます。書物としての成立はカーマ・スートラが先(西暦400年代)で、タントラ経典の方が後(西暦700年頃)です。

実は、カーマスートラという教典は、インドでももっとも古い書物になります。もちろん、思想としては古代インド哲学(始まりは紀元前1500年〜1000年くらい)があり、その哲学・宗教観を書き記したとされるマハーバーラタमहाभारतम् Mahābhārata)は、紀元前500年くらいに書き始められて西暦400年に完成したとされています。ブッダの入滅が紀元前500〜400年くらいなので、入滅頃にマハーバーラタが書き始められて、完成する頃(西暦400年くらい)にカーマスートラも完成したということになります。

一方、紀元前500年くらいから仏教文化が花盛りになると同時に、国教としての地位を奪われたバラモン教がヒンドゥー教(大衆化したバラモン教)に変化し始めます。西暦400年くらいに、いまのヒンドゥー教の形になります。

お、また西暦400年が出てきましね。

その後、地位を脅かされる仏教がヒンドゥー教の教義(菩薩や観音などの神様)を取り入れて密教になります。これが西暦600年くらいです。それでも仏教の地位は低下の一途なので、西暦700年セックス仏教が始まります。セックス(タントラ)仏教が栄えます。

結局、そういった(西洋文化から見てふしだらな)タントラ仏教は、西暦1193年にトルコ(イスラム)の侵攻を受けて寺院や仏教大学が破壊され、ついにはインド仏教は壊滅してしまいます。インド(のタントラ)仏教はチベットへ逃げてチベット仏教になります。

タントラTantraの中のカーマスートラKāmasūtra

さて、タントラの成立時(西暦700年頃)には、すでに古典としてカーマスートラが存在しています。カーマスートラはさらに発展を続けてカーマシュートラという一連の文献になっています。
実は、タントラの中にカーマスートラの記述は、僕は見つけられていません。でも、当然のことながら、タントラはカーマスートラの影響を受けているでしょう。

タントラ思想に関しては、このブログでも何度も出てきて、『タントラに関する情報』にまとめてありますよ。
さて、具体的なタントラでは、女性のエクスタシーの極致こそが涅槃であり、男性は射精せずに女性のエクスタシーを介して涅槃へ達せよとなります。
では、タントラではどうやって「女性のエクスタシーの極致」を得ればいいと考えたのでしょうか。その手がかりは、当然のことながらカーマスートラにあると考えるのが自然ですよね。
つまり、タントラの使われる性技は、カーマスートラを参考に練り上げられているはずです。逆に言えば、タントラの研究者(考案者)は、当然、古典であるカーマスートラの技を試しているはずです。

カーマスートラ(Kāmasūtra)の中身とは

さて、そのカーマスートラの中身はどんなものでしょうか? 僕がカーマスートラを初めて読んだのは今から30年ほど前の20代前半だったと思います。もっと前かな? 最初に読んだ感想は、面白くない本だなぁ、エッチな記述が少ないなぁ、というものでした。

内容は非常に論理的です。地理学的な側面も強く、インド各地の性文化の研究書にもなっています。文中には様々な学説も書き並べられていて、比較文化の書物としても非常に優秀です。50歳を超えてから読むと、これほど機知に富み、深い本は他にないかもしれないと思えます。性技に関しても、各々たった2行程度の中にすごいことが書かれています。

さて、その性技をいくつか紹介します。

例えば、セックスの相性は9種類が挙げられています。性器のサイズを男女共3段階に分け、その組み合わせを研究しているのです。
カーマスートラの体位は64通りと言われますが、実は本文中には、僕が数えた限り次のようになります。

カーマスートラの体位

カーマスートラに記載されている体位を『カーマ・スートラ』(訳:大場政史)の日本語表記と、英語版『Kama Sutra』(リチャード・バートン)の記載を併記しました。
なお、特に記載のない場合は、基本は男性が上か横の体位です。

  1. 広開位”widely opened position”(女性が足を広く開く)
  2. 高開位1”yawning position”(女性が足を広げて高く上げる)
  3. インドラ女位(女性が体育座りで横向きに寝る)
    大場訳は上記だが誤訳だと思われる。
    英語では、「両腿に両膝を折り畳んで重ねて(体育座り)、その折った脚を自分の脇へ置く」つまり、カエルのような格好、もしくはM字開脚。
  4. 閉塞位”clasping position”(仰臥)(男女ともに足を伸ばす)
  5. 閉塞位”clasping position”(横臥)(閉塞位で横向き)
  6. 閉塞位で圧迫位”pressing position”(閉塞位で、女性が腿で締め付ける)
  7. 閉塞位で交叉位”twining position”(閉塞位で、女性が片脚を男性に絡める)
    これも誤訳と思われる。英語では「女性の両腿を男性の片腿にtwiningする。つまり巻きつける」とある。twiningは「巻きつく、絡める」の意なので、「巻き付き位」の方が良いと考える。
  8. 牝馬位”mare’s position”(閉塞位で、女性が膣で締め付ける)
  9. 上昇位”rising position”(女性が両脚を直立)
  10. 高開位2”yawning position”(女性が脚を男性の肩にのせる)
  11. 圧迫位”pressing position”(女性が脚を折り曲げて男性の胸に押し付ける)
  12. 半圧迫位”half pressing position”(上記で片脚のみまっすぐに伸ばす)
  13. 竹割り位”splitting of a bamboo”(女性が片脚だけ男性の肩に乗せ反対の脚はまっすぐ。それを左右交互に繰り返す)
  14. 釘打ち位 “fixing of a nail”(女性が片脚だけ男性の頭の上に置き、片脚はまっすぐに伸ばす)
    これも誤訳かもしれない。「女性が片脚だけ自分の頭(the head)の上に置き、片脚はまっすぐに伸ばす」だから、続く説明に、「これには練習が必要だ」とあるのだろう。つまり、新体操のように女性が片足をまっすぐ片脚を伸ばして自分の頭に付ける体位だ。
  15. 蟹位”crab’s position”(女性が両脚を折り曲げて自分の腹部に密着させる)
  16. 密閉位(女性が両腿を交差させる)
  17. 蓮型位”lotus-like position”(女性が左右の脛を交叉させ、あぐらのようにする。
    ”lotus-like position”は「あぐらのような体位」)
  18. 回転位”turning position”(日本語訳は破綻。英語から訳すと、「挿入したまま男性は振り向くように反対を向き(上半身のみ)女性を喜ばせ続ける。その時、女性は男性を背中から常に抱き付く」ヨガのポーズのようだろう。
  19. その他、名称だけで「横臥位”lying down”」「座位”sitting”」「立位”standing”」
  20. 日本語訳なし”supported congress”(互いの体を支えにしたり、壁や柱を使ったりして立ったまま性交する。「支え性交」)
  21. 浮上位”suspended congress”(男性が壁に寄りかかり、両腕を組み合わせて女性を乗せる。女性は男性の首に抱きつき腿を開いて男性の腰を押し付ける。女性は足裏を壁に付けて踏ん張り(腰を)動かす)
  22. 牡牛位”congress of a cow”(これも誤訳。cowは雌牛。男性が牡牛のように四つん這いの女性に後ろから覆い被さり性交する)
  23. 上記につき、犬、ヤギ、鹿、ロバ、猫、虎、象、イノシシ、馬などを真似ても良い。
  24. 複合交”united congress”(2人の女性とのセックス)
  25. 牡牛群交”congress of a herd of caws”(これも誤訳で雌牛群交。複数の女性と交わる。乱交)
  26. 下等性交”lower congress”(アナルの性交)

以上が、カーマスートラに出てくる体位です。ただ、お分かりのように、23番以降は体位ではなくバリエーションです。
つまり、俗に64種類の体位と書かれていますが、64がインドの縁起がいい数字なので、そう書かれているだけか、誰かが誤訳したのだと思います。
カーマスートラで女性が男性を喜ばせる技として64種の芸技があるとされ、これは音楽や作詞やマッサージなど64種が挙げられています。
つまり、カーマスートラの性技(体位)としては、上記22種程度だと思います。

カーマスートラの女性が上のポーズ

ただ、これだと女性が上になるポーズがありません。この点についてカーマスートラは、女性が男性のように振る舞う、女性が男性のポジションにつく、とあります。本文に記載はありませんが、理屈上で上記の体位で女性が上になってもできるのは、
1(両脚を広げて男性の上に座る。普通の騎乗位。女性が膝を床に着く)
3(カエルのような格好で男性の上に座る=体育座り)
4(女性が上で、男女共両脚を伸ばす)
6(4の状態で女性が腿を締める)
7(4の状態で女性が男性の片脚を両脚で絡める)
8(4の状態で膣を締める)
9(女性が脚を前方へ投げ出して男性の上に座る)
10(女性が両脚を男性の肩に乗せた姿勢で座る)
11(女性が正座で男性の上? できるかなぁ?)
12〜14は、前後180度開脚っぽいですね。できるかなぁ。
15は騎乗位で女性が男性に胸を合わせる。抱きつく感じかな。
16も、できなくもないかな。動きにくいけど。
17男性の上であぐら。動きにくそう。
21は、女性を壁に押し付けて挿入かな。

いずれにせよ、全部足しても64種にはならないですね。

タントラの体位は?

さて、タントラに使われる体位はどれでしょうか? タントラの思想では、どれか1つに決めない、ということです。どれでもいい。ただ、長時間の性交ですから、自ずと体が楽な体位しか選べないですよね。
実は、カーマスートラには、体位だけでなく、挿入の技が詳しく書かれています。これは、非常に機知に富んでいます。角度、どこを擦るか、などなど。こちらの方がタントラに適していると思います。
この点は、次回に。

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永遠なのは魂のみ

タントラで、瞑想する目的とされているいくつかの考え方があるので、それを紹介します。元はサンスクリット語のヨーガ・スートラと、日本語のタントラから引用しています。

全ては自分の中にある

今、生きているということは、滅び行く肉体への投資である。
人は、すぐに形や方法を求めるものである。しかし、それは永遠に自分の外側にあるものだ。
外にあるものを追い求めようとするから、自分が空虚に感じるのだ。
自分を空っぽだと思うから、さらに外側に何かを求めようとする。
それは、たとえば買い物であったり、旅であったり、特別な体験だったりする。

しかし、求めるものは外側にあるのだから、永遠に自分の中には入って来ない。

では、どうすればいいのか。
求めるものは、実は初めから自分の中にある。
そのことを信じて認めることによってのみ、欲しいものが手に入る。

信じ認めるためにはどうしたらいいのか。
ヨーガを実践せよ。瞑想せよ。真理を学べ。

どれを行っても良い。内側に求めようとする限り、それは正しい道である。

肉体の満足に溺れるな

人は肉体が語りかけてくる満足に溺れてしまう。
必要以上に食べ、必要以上に怒り、必要以上に泣く、それらはすべて肉体からの誘惑だ。

本当の魂は、そんなことを望んでいない。

人にはできない体験を望むな、喜ぶな。
特別な扱いをされることを望むな、喜ぶな。

どんな特別な体験をしても、どんな贅沢な食事をしても、どんなすばらしい扱いを受けても、いつかは物足りなくなる。肉体は新陳代謝する。だから、常に新しいものを手に入れようとする。
肉体が存在する限り、欲は生まれ続ける。

肉体は常に物足りないのだ。
肉体は、魂に空虚を感じさせ何かを手に入れさせようと誘惑する。

魂が物足りなさを感じるのは、魂が肉体に支配されているからだ。
満ち足りた気持ちを永遠に続けるには、肉体の満足から離れるしかない。肉体の誘惑、食べたい、人より贅沢がしたい、楽がしたい、それらを軽蔑し、貴方から切り離さなければならない。

肉体が贅沢を望む時、魂はそれを傍観し、肉体が誘惑していると思え。肉体が特別な扱いを望む時、魂はそれを傍観し、肉体が誘惑していると思え。

そう思える時が瞑想である。

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ヨーガ・瞑想が目指す『感情に支配されない』と性タントラ

オウム事件の死刑囚が移送され、死刑執行があるのではないかとささやかれています。昨日は、麻原の三女が「ある日突然、家族やよく知っている人が死刑囚になった。(加害者家族にとっても)死刑は怖い。死刑はやめて欲しい」という趣旨の話しがあったので、それを引用してFacebookに以下のように書きました。

ーーー
これは考えさせられるなぁ。
怒りをコントロールすることができない人には分からないかも知れない。
顔と名前を出して訴えていることを考えないとなぁ。
ーーー

殺人犯を擁護するのか! の攻撃が始まる

ヨガや瞑想をしている人に、いきなり「殺人犯の擁護するのか!」と言う人はいないと信じたいのですが、そう思う人はいるかもしれません。

Facebookでは、急に「加害者家族のことなど知ったことじゃない」という話しに流れていきます。「被害者家族の気持ちが分からないのか」と続きます。 僕は、死刑判決の被害者家族の追跡調査をすると、死刑が執行されると被害者家族が離散してしまう、被害者家族は大変なんです、と言う事実を書きました。 すると、「死刑を無くせと言うのか」と論調が死刑廃止論への攻撃に変わります。

考えなければならない、と言っているだけ

ヨーガ・スートラやタントラの中では、この議論を「愚かだ」といいます。

僕は、被害者家族も加害者家族も大変だ、考えなければならない、と言い続けているのに、慶応大学まで卒業している人が「加害者を守る法律がないのだから、守る必要がない」と言い出す始末。

さて、何が「愚か」なのでしょうか。
僕の話に反応して攻撃というか反論を繰り返す人たちは、善か悪かの二元論に囚われています。
つまり、「加害者家族のことを考えなければならない」と聞いたとたんに、「加害者を保護する」と思い込むのです。被害者が可哀想なのに、なぜ加害者を保護するのか、と考えたわけです。

しかし、僕は加害者家族を保護するとは言っていないのです。

事件当時子供だった三女が、「死刑は怖い、やめて」という気持ちがあるのは理解できると発言すると、「理解できる」=「保護・擁護する」と思い込む人たちがいるました。そして、自分が思うことに対して肯定か否定かということで相手を味方か敵かに二分してしまい攻撃してくるのです。

そう、これが感情に支配された二元論です。

僕も、他に僕に似た発言をする人も、皆、擁護すると言っていないのです。理解できる、ということだけなのです。それにもかかわらず、お前が加害者を擁護するなら、俺は反対で被害者は可哀想だから「死刑を支持する」という、全然違う方向へ話しが持って行かれます。

二元論が憎しみと不安を生む

世の中は、善か悪か、YesかNoかという二項対立でできているわけではありません。三女の話にしても、良いも悪いもなくて、これまで加害者家族というのは声を出してこなかったので、しかも実名顔出しで三女は声を上げた。その声を聞いて考えようということが、二元論でしか考えられない人は、敵か味方かという判断になってしまい、行動を開始してしまいます。

なぜ、そんな行動(他人を攻撃する)を始めてしまうのでしょうか。
それは、二元論で考えると心が不安定になるからです。

自分は正しいと思うのに反対する人がいる、あいつを排除しない限り自分は不安だ、あいつは憎たらしいと思うのです。

これが感情をコントロールできない人の特長です。

瞑想の目的は両極を捨てること

ヨーガスートラやタントラでは、この両極(善か悪か)へ進んでしまうことを「心が揺れる」と言います。どちらかの片方へ進めば安心できると思うのですが、実際には安心できないのです。 「しかし結論を決めないと物事は進まないではないか」
と二元論の人は考えます。
しかし、有史以来、人間の問題で解決できたものは、何一つありません。解決できないから、新しい何かを生む努力を繰り返すのです。 解決できると思っているだけで、本当は二元論の片側に腰を据えただけです。それは、反対側の人を黙らせているに過ぎないのです。

そういう状態は「愚かだ」ということです。
では、どうすればいいのでしょうか?
二元論・両極論をやめるということです。
しかし、人は何かを決めなければならないはずです。
いいえ、そう思い込むことが二元論なのです。
良いか悪いか決めたがるのは感情です。理性ではありません。

やるべきことは、良いも悪くない、真ん中にいることです。
真ん中にいるためには、二元論が大好きな「感情というもの」をコントロールして、何が真ん中なのかを理性で見出すことです。
理性を働かせるには、心を落ち着かせる必要があります。
その方法は、そう、瞑想なのです。

瞑想で幸せになるということ

瞑想でなぜ幸せになれるのかというと、心を不安定にする二元論・両極論から脱することができるからです。
瞑想で何も考えないというのは、実は両局から脱出して、自分が真ん中に存在することを確認するということだと、ヨーガ・スートラ、タントラで説明されています。

男女のセックスがもたらすことは真ん中を見つけること

男女は二元論の最たるものです。これほど両極端なものはありません。
男女の愛は、何のためにあるのでしょうか。
そう、両極端の2つの性が、真ん中に集まるためにあるのです。
その究極がセックスです。

完全なセックスが行われるとき、男女の差がなくなり、1つになった感覚を発見できます。
言い方を変えると、どんな人間でもセックスによって真ん中を体験することが可能なのです。どんな瞑想よりも簡単に真ん中を実感することができます。 これがタントラの哲学です。

真ん中を考えない限り無駄になる

セックスは危険です。先ほどの真ん中を見出すためにセックスが行われるのであれば、もしくは結果として真ん中を見つけられれば素晴らしい体験となります。 しかし、単なる欲望のためにセックスが行われると、それはどうなるのでしょうか?
「良いセックス、気持ちが良いセックス」というように求めると、それは善し悪し、肯定否定という二元論が生まれる温床になります。つまり、セックスが原因で好き嫌いが生じて、憎しみが生まれ、争いが起こります。これも、非常に簡単に起こってしまうものです。

ですから、タントラでは、セックスで真ん中を見つけよ、と言います。両国の男女が1つになる感覚を目指せと言うのです。

では、3秒間瞑想をしましょう。目を閉じて、鼻から息を吸い、口から吐く。その時に目をぱっと見開きます。

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瞑想とタントラについて(2)

タントラという言葉をご存じでしょうか。
Wikiによれば、「ヒンドゥー教シャクティ派の聖典(経典)のシバ神妃の性力(sakti)を崇拝する」と書かれています。
困ったなぁ、これを読むと、カルト宗教みたいですね。

タントラは哲学だ

Wikiで解説されていることは、西洋的な切り口っぽいです。
前回も説明しましたが、西洋的価値観の中で性を論じると、どうも歪んでしまいますね。
むろん、Wikiが完全に間違っているということではないのですが、非常に断片的というか側面的です。どうしてそこをピックアップするか?

僕の解釈になりますが、
シャクティ派は、シバ神妃を崇拝しタントラ哲学を教義に取り入れているヒンドゥー教の一派である、ということです。
つまり、タントラ=ヒンドゥー教の一派、ではないのです。
これ、かなり重要です。

古代インドの基礎が重要だ

空海(日本真言密教の開祖)と親鸞(浄土真宗の開祖)が性を大いに認め推奨していることは有名です。性を否定することはできない、と述べています。これが非常に重要です。つまり、空海も親鸞も、実はタントラを学び、理解していたと思われます。

日本に伝わっている仏教は、時代によって全く違うものになっています。大乗仏教とか小乗仏教というのは西洋的な切り口で、本当は部派仏教というか、上座部仏教とか、チベット仏教(密教)とか、仏陀の教えとそれ以外の思想が融合したものかの違いがあります。
ポイントは、原始仏教(仏陀の教えをメインにしている=スリランカ仏教、タイ仏教など)と、それ以降の仏教(大日如来や観音などを崇める)は、かなり中味が違うということです。

古代インド哲学が重要です

タントラのベースは古代インド哲学(紀元前2500~2000年くらいに成立)です。古代インド哲学が考える宇宙観、つまり、この世界は精神・魂(プルシャ)と物質(プラクリティ)によって構成されていて、精神は万物共通のもので、物質部分(肉体)の性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)の差で、人間などの個性が現れるとされています。 これを仏教の言葉にすると、プルシャ(魂)の目指す場所が浄土であり、魂と肉体の切り離しこそが「悟り」ということになります。
仏陀が死んだのが紀元前400~500年くらいとされていますから、古代インド哲学はそれよりも2000年も前に成立しています(中国の易経の元と同時期だと思います)。ちなみに、中国の孔子、ギリシャのソクラテスと仏陀は同時代の人物です。

簡単に言えば、「浄土とか悟り」と称したのが仏教であり、ヒンドゥー教は、同じ思想を、様々な神に願うことで魂をあるべき場所へ向かわせると解釈しています。
そして、仏教の中でも密教は、そのヒンドゥー教の神を仏陀の教えに取り入れたもので、日本では、曼荼羅をベースに大日如来や観音とか菩薩という神様の位という考え方になっています。ヨーロッパの基準に照らすと、実は仏教はヒンドゥー教の一派とされているくらいです。それが近年になって別のものと認識されるようになりました。と言いつつ、別のものと認識されているのはスリランカ仏教・タイ仏教のような仏陀の教えだけを使っている宗派です。日本の仏教はヒンドゥー教の派生に分類されているのです。僕は、この分類は正しいと思います。なぜなら、教えの中味(思想)が、ヒンドゥー教と現在の日本の主流の仏教で差異が少ないからです。

何でもアーリア人は滑稽だ

さて、やっとタントラの話です、と言いたいけど、まだまだ誤解の渦巻き巻き巻きです。

タントラは、古代インド哲学の1つの学派です。成立は紀元後400年~500年くらい、経典成立は700年くらいだと思われます。ただ、この思想自体は、紀元前にさかのぼります。

ここで予備知識として頭に入れておくべきは「カーマ・スートラ」です。この書物は紀元後500年前後に成立です。つまり、古代インドは、様々な哲学が研究されその絶頂期にあり、その中に性の研究がまじめに行われていたということになります。

そして、当時の国教のバラモン教(古代インド宗教:紀元前500年くらいに確立、紀元後400年頃にヒンドゥー教に変わる)も、古代インド哲学をベースに成立しています。

ちょっと余談ですが、Wikiのヒンドゥー教の説明が酷すぎる。まるでアーリア人が作ったみたいな解説になっている。西洋人の発想が加わると、何でもアーリア人が偉いになっちゃうなぁ。ヒットラーみたいだ。
1万年前のチグリス・ユーフラテスの文明発祥はいいとして、そこから派生した人類が、みんな同じ思想みたいになっているけど、まぁ、乱暴極まりない。しかも、善悪二局対立の発想が、全部ゾロアスター教(アーリア人が作った古代宗教)の影響ってことにされちゃう。善悪二局対立なんてのは、人間は母から生まれます、みたいなもので当たり前の思想です。西洋文明から隔絶されている南米文明にも見られるんだから、ゾロアスター教の専売特許なんて言い方は馬鹿げています。

なんでもアーリア人・ゾロアスターのセットで考えるのは如何なものよ。つまり、アーリア人って出てきたら、何でもヨーロッパ至上主義みたいな宣伝文句だと思った方が安全です。

いずれにせよ、バラモン教にしてもヒンドゥー教にしても、ヨーロッパ文明にはない、魂と物質という宇宙の構造をベースに、土着の神様を取り入れているのです。この世界観は独特でありながら、現在の量子力学を預言するような普遍性を持っています。

難しい話は別にしまして、現在の仏教が成立する前に、宇宙の原理(涅槃とか極楽浄土の話)がもともと研究されていて、第二階級のクシャトリアに広まったのが仏教ということです。つまり、中味は仏教オリジナルじゃないのです。

その後に、現在の密教(古代仏教とヒンドゥー教の融合)が生まれて、同時期にはタントラの土台となる性の研究が流行して寺院まで建っていたということです。

仏教もタントラ哲学をベースにしている

やっとタントラに追いついた。以下、わかり易いように、かなり乱暴に書きますね。

仏教の経典にはタントラを取り入れたものがあります。具体的には空海が持ち帰り、公開不可とした理趣経(≒セックス経典)が代表選手です。同時期に唐へ留学して、仏教をちょっと学んで帰ってきた最澄(国費留学)は、この理趣経を中国で教えてもらえませんでした。
実は、理趣経があるために、中国では当時の仏教を排除する動きがあり、中国でも門外不出だったためだと思われます。つまり、ちょっと勉強しただけの国費留学生のエリートさんに、危ない経典は渡せなかったということだと思います。 最高機密の理趣経をもらえすに帰国した最澄は、空海に理趣経を見せて欲しいと頼みますが、空海は断ります。
「お前みたいなガリ勉エリートが読んでも分かんねぇよ」
って言ったと思います。というか、国費留学の最澄に理趣経(≒セックス経典)を見せたら、当時の政府が仏教弾圧に乗り出すかも知れません。中国ではそうでしたから。それじゃ困るから、空海は秘密にしたのだと思います。

セックス経典は、いつの世にも為政者に嫌われます。インドでもセックス仏教が流行ると(セックス寺院がたくさん建つと)、国家が弾圧に乗り出し、セックス仏教はチベットへ逃げて「俺たちチベット仏教だよ~ん」と名前を変えちゃいます。弾圧されたセックス仏教は、戒律を変えます。セックス教義は、ある一定の修行をした人しかやっちゃためだよ、と戒律を作ります。非常に政治的ですよね。だってインドでは道ばたでもセックスすれば涅槃へ行かれる、悟りが開けるとおおっぴらにやっていたのです。チベットへ逃げたら、反省したのか、上の階級の僧侶しかセックス経典は使わせないよ、って言い出したのです。しかも、下々が勝手にやると地獄へ落ちると言っています。でも、元の古代インド哲学には地獄は存在しません。というか、生きているこの世が地獄で、魂がピュアになったら極楽へ行かれる、としています。つまり、チベット仏教の地獄って、さてはて、何処でしょうか? 実は、それはラマ教が融合しちゃって、もう訳が分からない宗教思想が元になります。ちなみに、オウム真理教は、このチベット仏教を100%ピュアに実行する集団だったんですよ。だって、チベット仏教の最高教義は、この世に世界戦争を起こして、世界中を滅ぼし、自分たちの楽園シャンバラ国を作るってことですから。

さてはて、タントラ思想ですが、決してWikiが書いているようなシバ神妃崇拝が中心じゃないです。そういう部派もあるということです。
タントラの中心は、インド哲学の「宇宙の構造」に由来します。そして、心の状態をどうすると、宇宙の構造からみて安定したり、迷いがなくなったり、幸せになれたりするかということです。その方法論に「性」があるということです。 つまり、インド哲学へのアプローチは様々あり、その1つが仏教であり、ヨガであり、瞑想であり、タントラだということです。
宗教というのは、そういう考え方を組織化しただけの器でしかないので、それほど重視する必要はないと思います。

さて、長くなったなぁ。物書きの悪い癖です。
次回は、具体的な方法論にも踏み込もうと思います。

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瞑想とタントラについて(1)

インド哲学には、様々なジャンルがあります。
その中でも、他の哲学にはあまり見られないのが「性に関する考察」です。
ご存じのように西洋では「性はタブー」であり、公で語ってはいけないものになっていますし、今日でもなかなか話題にしにくいジャンルですよね。でも、インド哲学(宗教)は、きちんと考えています。 性の宗教学に関して、数回に分けて書いてみたいと思います。
今回はその第1目として、背景となる基礎知識を紹介します。

まじめに語ります

前述のようにインドや中国(道教)では、性に関する研究はまじめに行われています。逆に言えばエイブラハムの宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は性に関してかなり慎重で、研究すらしていないと言えます。
非常に乱暴な言い方をすれば、西洋の性に関する考え方は、童貞僧侶によるヒステリックな妄想に近いと思えます。性の話題に関しては耳をふさいで何もしない、という態度なのです。女性の性欲は悪魔の仕業とすら言い出すのですから、困ったものです。 だから、性に関する考察は、西洋文化を参考にしては駄目だと思っています。

性に関しては、おおらかであることがスタンダード

世界中の古代宗教は、性に関しておおらかです。
性器を祭る宗教が世界各地にたくさんあります。

人間の人生において、大地から植物が育ち、それを食べて生きていき事の神秘性(豊穣)と、女性が子供を産む神秘性は、他のどんな出来事よりも神聖なものとして考えるというのは、当然のことだといえます。 それゆえ、性に関することが宗教になるということは自然です。

ただし、政治と性は親和性が悪いようです。性的儀式を国家行事にしている国はありません。
それらを分析すると、性は精神性(宗教の教義)には親和性があるが、組織運営(政治や教会)には嫌がられる側面がある、ということです。

聖書(エイブラハム)の宗教は進化の結果

エイブラハムの宗教(つまり聖書を使う宗教)は、後発の宗教です。ローマ帝国などの覇権国家が広まる時に、地元の宗教を駆逐するか、上手に取り入れることによって、地場の宗教の書き換えをしています。 つまり、古い土着宗教は滅び、新しい(正しい)エイブラハムの宗教が残ったということになっています。

それゆえ、西洋文化というかヨーロッパ文化の中では、古い宗教は駄目で、書き換えた新しい宗教が先進的で素晴らしいと、無意識に考えているようです。ここには進化論も混じっていて、悪いものは滅び良いものが残る、という発想が根強くあります。 つまり、性を根幹にした宗教は駄目だから排除され、性をタブー視する新しい宗教こそが正しい、と思うわけです。

正しい性の宗教学とは

ここまで考えてくると、西洋的な価値観から離れない限り、性に関して冷静に考えることができないことが分かります。
日本人は明治維新以降、いわゆる西洋かぶれで、多くの価値観が西洋風に書き換えられています。
性に関して論じるにも、そこは大きな壁になっています。

そこで、次回は、性に関する歴史的な流れを紹介したいと思います。

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夢と瞑想の関係

そろそろ寝る時間です。
寝ると夢の世界がやって来ます。
インド哲学では、人生は覚醒時、夢を見ている時、寝ている時の3つの状態があるとされています。夢の世界では、肉体の縛りがないために、心が自由に動けるとされています。しかし、夢の中で急に夢の中で活動している自分を見つめるもう1人の自分がいる事に気づきます。

夢の状態を瞑想で再現

夢の中の自由な世界を瞑想で再現する事ができるとのことです。
そのように夢を自在にコントロールすることが、瞑想の1つの目標だとされています。
子供の頃、楽しい夢を見て、翌日も同じ夢の続きをみようと努力したことはありませんか?

実は、それが瞑想そのものなのです。
瞑想は、頭の中を空っぽにすることだと思い込んでいる人が大勢いますが、頭を空にすることは難しいと古代インド哲学でも解説されています。むろん、そういう状態になることは目指すべきなのですが、実際には様々な思いが溢れるのが心です。

良い心の状態を保てば、それが瞑想だと、古代インド哲学では語られています。

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性に関する瞑想・哲学

瞑想と性の関連は、古代インドにおいても重要なテーマだったようです。
古代インド仏教は、ヒンズー教の台頭に対抗するために、性の秘儀を競技に取り入れました。
インドにセックス寺院があるのは、このためです。

セックスが最高の瞑想だとする教義がある

セックス仏教によりインドでの古代仏教の勢力は保たれることになりますが、風紀の乱れから、インド仏教はインドから追放され、チベット仏教となります。

日本の仏教の主流は、このチベット仏教の流れを受け継いでいるので、実は理趣経などにセックス教義が秘儀として書かれています。
その中では、セックスこそが最高の瞑想であり、涅槃へ通じるとされています。

ただし、正しく行わなければ地獄へ落ちるとされており、確かに、風紀を乱し、男女関係を危うくする要素もはらんでいます。

タントラにも同じ教義がある

タントラとは、ヒンズー教の一派で、性を教義とする宗派です。間違えてはいけないのはセックスを目的としているのではなく、幸せを通級する形の中に性があるということになります。イベっと仏教は、このタントラを取り入れているのです。

いずれにせよ、究極の瞑想は、女性の性の喜びと同じだと説かれています。
ただし、肉欲ではない、性の本当の価値を見出してこその秘儀。
このブログでも、検討課題の1つにしておきましょう。

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