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インド哲学で般若心経の本質が分かる

日本人に一番有名な仏教のお経といえば「般若心経」だと思います。
瞑想に般若心経を使う人もいると思います。
むかしブームになって、256文字でできたこのお経を暗記して瞑想するのも流行りましたし、現在でも写経が人気ですね。写本自体が瞑想だとする考え方もあります。
般若心経の解説本もたくさんあります。僕も高校生の時に読んで、仏教は凄いなぁ、と思ったものです。

インド哲学を知ると本当の意味が見えてくる

般若心経の原文はサンスクリット語で書かれています。それを西暦649年三蔵法師が翻訳して中国へ持ち帰ったというのが定説です。ポイントは、サンスクリット語が中国に翻訳された段階で、ちょっと意味が不明瞭になってしまっていることです。つまり、中国語になる時にむずかしくなってしまっているのです。もともとブッダが作った仏教は、誰でもわかり易いというのが特徴です。ですから、元のサンスクリット語の方が意味が明確なのです。

般若心経の「色即是空」とは何か?

まず、この般若心経の有名な一節「色即是空、空即是色」というのは、原文のサンスクリット語とちょっと違います。中国語の「色即是空・空即是色」を訳すと「肉体や精神(色)は、つまり(即)、無(空)であり、無(空)は、つまり(即)、肉体や精神(色)だ」となります。
日本語に意訳すると「色(肉体や精神)は、すなわち、無である。無であることは、すなわち、色(肉体や精神)だ」となります。2つのことが逆さまにしても同じ、みたいな訳です。かなり意味不明です。ここが般若心経の難しさだと言われています。

サンスクリット語の原文には「色即是空」が存在しないぞ!

元のサンスクリット語を正確に中国語にすれば、「色是空、空即是色」と書けます。
つまり、サンスクリット語の原文には最初の「即」がないのです。
うわ〜、お坊さんが偉そうに「色即是空!」なんて禅問答をしている映画のシーンがありますが、あれって原文を知っていると、恥ずかしい〜、って話です。
(ちなみに中国の「是」は英語の「is」です)

サンスクリット語の原文「色是空、空即是色」を日本語にすると、
「色(肉体や精神)が空(宇宙)の状態である(ことを知れば)、すなわち、空(宇宙)が(自分の)色(肉体や精神)だ」と訳せます。

インド哲学を知っていると中身は明解

それでも「空」は、ちょっと意味不明ですね。
でも、インド哲学が分かっていれば、宇宙全体と人の魂は同一であって、もともと同一であったことを忘れてこの世にいる人間は、宇宙と自分が同一だと理解することが悟りだ、という根本思想が思い浮かびます。

インド哲学が仏教の前に存在し、そのインド哲学を庶民にわかりやすく説いたのが仏教であることを理解していれば、「色是空、空即是色」というのが、上記のインド思想を語っているということだと解釈するのが自然だと、私は考えますし、サンスクリット語の原文も、そういう記述になっていると思います。

そうしたことを踏まえて、もう一度「色是空、空即是色」を意訳すると、
「人の本質(肉体や精神)は、宇宙そのものと同一だ。そう考えると、この世は自分の肉体や精神の延長である」
となり、インド哲学の思想そのものを表していることになります。

その前文こそが般若心経の全て

そう意訳していい証拠は、その前文にあります。
前文は「照見五蘊皆空、度一切苦厄」です。
(色不異空、空不異色もありますが、ちょっと割愛)
照見とは、主語がこの前文に出てくる「観自在菩薩」です。「観自在菩薩が照見した」、と訳します。照見というのは、明らかに見た(悟った)、という過去形です。
「五蘊皆空」がその目的語です。中国語は英語に近い文法ですね。正確には「五蘊(是)皆空」という目的節です。関係代名詞のthatの省略みたいです。

まあ、文法はさておき、五蘊とは仏教の中でいう人間の本質のことです。肉体だけでなく、感じることとか考えることなどの5つの要素で人間ができていて、お釈迦様は、その五蘊が人間の本質だと語っています。

中国語版の般若心経の「五蘊皆空」は「五蘊(人の本質)は、皆、空だ」と訳せますね。
つまり、「照見五蘊皆空」は、「(菩薩様が)人間の本質はみな空だと悟られた」と、中国語の般若心経からは訳せます。本当でしょうか?

あれ、中国語版の般若心経は、また違うぞ

さて、この「照見五蘊皆空」ですが、これがまた、サンスクリット語では、ぜんぜん違うのですね。
サンスクリット語では、
「菩薩様が、(人間の本質=色は)五蘊であると悟られた。さらに、その五蘊は空である、と悟られた(照見した)。」
という2つの文章になっています。
2つの文章でも中国語の1文でも同じじゃないの、と思われるかもしれませんが、そうではありません。
まず、菩薩様は、人間の本質は5つの集まり(お釈迦様の説いた五蘊)だと悟った、という事実(過去形)が書かれています。ですから、人間の本質が空だ何もない、と言っているわけではないのです。
最初の文は、人間の本質は5種類に分類でき、人間の本質は明らかに存在するものである、ということを先に認めよう、という仏教の基本、インド哲学の基本を語っています。
そして、後ろの文は、その人間の本質である5つの要素それぞれは違って見えるけれども、それぞれ1つ1つはそれぞれ「空」に属する、と読みます。
これはインド哲学を知っていると分かり易い話です。人間を構成する要素は、インド哲学の学説では様々あり、ブッダはそのうちの「五蘊」を選択しています。そして、その人間の本質の各要素は、そもそも宇宙(空)から生じているという思想です。

さらに、その後ろの「度一切苦厄」は、
「菩薩様は、(そのことによって)、度一切苦厄(すべての苦悩を超えられる)と、悟られた(照見した)」
となります。
そのことというのは、「人間の本質(五蘊)が存在し、それが空から生じていること」です。それを理解できれば、「一切の苦厄を超(度)えられる」と読みます。
(サンスクリット語って、数学の分配法則のように、主語が、後ろの文の文頭に補いながら読み進めるのです)

サンスクリット語から般若心経を意訳する

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色

ここまでサンスクリット語とインド哲学から意訳してみます。

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」
菩薩様(観自在菩薩)が、深く修行をして極楽浄土に入った時、

「照見五蘊皆空、度一切苦厄」
(菩薩様は)、人間の本質が5つであることをまず悟った。そして、その人の本質とは宇宙の原理そのものだと悟った。この2つが分かった時に、すべての苦しみから解放されると悟った」

「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
舎利子(ブッダの弟子)よ(先ほどのことが分からないだろうから説明しよう)、人間の本質は宇宙の原理と違うものではない。また、宇宙の原理は人間の本質と違うところがない。つまり、人間の本質は宇宙そのものである。だからこそ、宇宙の原理を自分の根本(本質)と理解せよ」

となります。
「舎利子よ」の部分で、「先ほどのことが分からないだろうから説明しよう」と補ったのには、理由があります。
これは古代インド哲学の記述方法に従っています。ウパニシャッド(最古の経典)でも、ヨーガ・スートラでもバガヴァッド・ギーター(マハー・バーラタ)でも、インド経典の書き方として、まず、「〜は〜だ」と言い、分からない相手に対してその後でたくさんの例示をします。ですから、般若心経も、まず先に答えを言い、その後ろに、相手が分かるまで例示を繰り返している、と読むべきです。これはインド式の経典の一般的な書き方なのです。

さて、般若心経の後半は、呪文だらけで、これもよく分かりません。
こちらについては、また、別に書きますね。

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瞑想とタントラについて(2)

タントラという言葉をご存じでしょうか。
Wikiによれば、「ヒンドゥー教シャクティ派の聖典(経典)のシバ神妃の性力(sakti)を崇拝する」と書かれています。
困ったなぁ、これを読むと、カルト宗教みたいですね。

タントラは哲学だ

Wikiで解説されていることは、西洋的な切り口っぽいです。
前回も説明しましたが、西洋的価値観の中で性を論じると、どうも歪んでしまいますね。
むろん、Wikiが完全に間違っているということではないのですが、非常に断片的というか側面的です。どうしてそこをピックアップするか?

僕の解釈になりますが、
シャクティ派は、シバ神妃を崇拝しタントラ哲学を教義に取り入れているヒンドゥー教の一派である、ということです。
つまり、タントラ=ヒンドゥー教の一派、ではないのです。
これ、かなり重要です。

古代インドの基礎が重要だ

空海(日本真言密教の開祖)と親鸞(浄土真宗の開祖)が性を大いに認め推奨していることは有名です。性を否定することはできない、と述べています。これが非常に重要です。つまり、空海も親鸞も、実はタントラを学び、理解していたと思われます。

日本に伝わっている仏教は、時代によって全く違うものになっています。大乗仏教とか小乗仏教というのは西洋的な切り口で、本当は部派仏教というか、上座部仏教とか、チベット仏教(密教)とか、仏陀の教えとそれ以外の思想が融合したものかの違いがあります。
ポイントは、原始仏教(仏陀の教えをメインにしている=スリランカ仏教、タイ仏教など)と、それ以降の仏教(大日如来や観音などを崇める)は、かなり中味が違うということです。

古代インド哲学が重要です

タントラのベースは古代インド哲学(紀元前2500~2000年くらいに成立)です。古代インド哲学が考える宇宙観、つまり、この世界は精神・魂(プルシャ)と物質(プラクリティ)によって構成されていて、精神は万物共通のもので、物質部分(肉体)の性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)の差で、人間などの個性が現れるとされています。 これを仏教の言葉にすると、プルシャ(魂)の目指す場所が浄土であり、魂と肉体の切り離しこそが「悟り」ということになります。
仏陀が死んだのが紀元前400~500年くらいとされていますから、古代インド哲学はそれよりも2000年も前に成立しています(中国の易経の元と同時期だと思います)。ちなみに、中国の孔子、ギリシャのソクラテスと仏陀は同時代の人物です。

簡単に言えば、「浄土とか悟り」と称したのが仏教であり、ヒンドゥー教は、同じ思想を、様々な神に願うことで魂をあるべき場所へ向かわせると解釈しています。
そして、仏教の中でも密教は、そのヒンドゥー教の神を仏陀の教えに取り入れたもので、日本では、曼荼羅をベースに大日如来や観音とか菩薩という神様の位という考え方になっています。ヨーロッパの基準に照らすと、実は仏教はヒンドゥー教の一派とされているくらいです。それが近年になって別のものと認識されるようになりました。と言いつつ、別のものと認識されているのはスリランカ仏教・タイ仏教のような仏陀の教えだけを使っている宗派です。日本の仏教はヒンドゥー教の派生に分類されているのです。僕は、この分類は正しいと思います。なぜなら、教えの中味(思想)が、ヒンドゥー教と現在の日本の主流の仏教で差異が少ないからです。

何でもアーリア人は滑稽だ

さて、やっとタントラの話です、と言いたいけど、まだまだ誤解の渦巻き巻き巻きです。

タントラは、古代インド哲学の1つの学派です。成立は紀元後400年~500年くらい、経典成立は700年くらいだと思われます。ただ、この思想自体は、紀元前にさかのぼります。

ここで予備知識として頭に入れておくべきは「カーマ・スートラ」です。この書物は紀元後500年前後に成立です。つまり、古代インドは、様々な哲学が研究されその絶頂期にあり、その中に性の研究がまじめに行われていたということになります。

そして、当時の国教のバラモン教(古代インド宗教:紀元前500年くらいに確立、紀元後400年頃にヒンドゥー教に変わる)も、古代インド哲学をベースに成立しています。

ちょっと余談ですが、Wikiのヒンドゥー教の説明が酷すぎる。まるでアーリア人が作ったみたいな解説になっている。西洋人の発想が加わると、何でもアーリア人が偉いになっちゃうなぁ。ヒットラーみたいだ。
1万年前のチグリス・ユーフラテスの文明発祥はいいとして、そこから派生した人類が、みんな同じ思想みたいになっているけど、まぁ、乱暴極まりない。しかも、善悪二局対立の発想が、全部ゾロアスター教(アーリア人が作った古代宗教)の影響ってことにされちゃう。善悪二局対立なんてのは、人間は母から生まれます、みたいなもので当たり前の思想です。西洋文明から隔絶されている南米文明にも見られるんだから、ゾロアスター教の専売特許なんて言い方は馬鹿げています。

なんでもアーリア人・ゾロアスターのセットで考えるのは如何なものよ。つまり、アーリア人って出てきたら、何でもヨーロッパ至上主義みたいな宣伝文句だと思った方が安全です。

いずれにせよ、バラモン教にしてもヒンドゥー教にしても、ヨーロッパ文明にはない、魂と物質という宇宙の構造をベースに、土着の神様を取り入れているのです。この世界観は独特でありながら、現在の量子力学を預言するような普遍性を持っています。

難しい話は別にしまして、現在の仏教が成立する前に、宇宙の原理(涅槃とか極楽浄土の話)がもともと研究されていて、第二階級のクシャトリアに広まったのが仏教ということです。つまり、中味は仏教オリジナルじゃないのです。

その後に、現在の密教(古代仏教とヒンドゥー教の融合)が生まれて、同時期にはタントラの土台となる性の研究が流行して寺院まで建っていたということです。

仏教もタントラ哲学をベースにしている

やっとタントラに追いついた。以下、わかり易いように、かなり乱暴に書きますね。

仏教の経典にはタントラを取り入れたものがあります。具体的には空海が持ち帰り、公開不可とした理趣経(≒セックス経典)が代表選手です。同時期に唐へ留学して、仏教をちょっと学んで帰ってきた最澄(国費留学)は、この理趣経を中国で教えてもらえませんでした。
実は、理趣経があるために、中国では当時の仏教を排除する動きがあり、中国でも門外不出だったためだと思われます。つまり、ちょっと勉強しただけの国費留学生のエリートさんに、危ない経典は渡せなかったということだと思います。 最高機密の理趣経をもらえすに帰国した最澄は、空海に理趣経を見せて欲しいと頼みますが、空海は断ります。
「お前みたいなガリ勉エリートが読んでも分かんねぇよ」
って言ったと思います。というか、国費留学の最澄に理趣経(≒セックス経典)を見せたら、当時の政府が仏教弾圧に乗り出すかも知れません。中国ではそうでしたから。それじゃ困るから、空海は秘密にしたのだと思います。

セックス経典は、いつの世にも為政者に嫌われます。インドでもセックス仏教が流行ると(セックス寺院がたくさん建つと)、国家が弾圧に乗り出し、セックス仏教はチベットへ逃げて「俺たちチベット仏教だよ~ん」と名前を変えちゃいます。弾圧されたセックス仏教は、戒律を変えます。セックス教義は、ある一定の修行をした人しかやっちゃためだよ、と戒律を作ります。非常に政治的ですよね。だってインドでは道ばたでもセックスすれば涅槃へ行かれる、悟りが開けるとおおっぴらにやっていたのです。チベットへ逃げたら、反省したのか、上の階級の僧侶しかセックス経典は使わせないよ、って言い出したのです。しかも、下々が勝手にやると地獄へ落ちると言っています。でも、元の古代インド哲学には地獄は存在しません。というか、生きているこの世が地獄で、魂がピュアになったら極楽へ行かれる、としています。つまり、チベット仏教の地獄って、さてはて、何処でしょうか? 実は、それはラマ教が融合しちゃって、もう訳が分からない宗教思想が元になります。ちなみに、オウム真理教は、このチベット仏教を100%ピュアに実行する集団だったんですよ。だって、チベット仏教の最高教義は、この世に世界戦争を起こして、世界中を滅ぼし、自分たちの楽園シャンバラ国を作るってことですから。

さてはて、タントラ思想ですが、決してWikiが書いているようなシバ神妃崇拝が中心じゃないです。そういう部派もあるということです。
タントラの中心は、インド哲学の「宇宙の構造」に由来します。そして、心の状態をどうすると、宇宙の構造からみて安定したり、迷いがなくなったり、幸せになれたりするかということです。その方法論に「性」があるということです。 つまり、インド哲学へのアプローチは様々あり、その1つが仏教であり、ヨガであり、瞑想であり、タントラだということです。
宗教というのは、そういう考え方を組織化しただけの器でしかないので、それほど重視する必要はないと思います。

さて、長くなったなぁ。物書きの悪い癖です。
次回は、具体的な方法論にも踏み込もうと思います。

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瞑想とタントラについて(1)

インド哲学には、様々なジャンルがあります。
その中でも、他の哲学にはあまり見られないのが「性に関する考察」です。
ご存じのように西洋では「性はタブー」であり、公で語ってはいけないものになっていますし、今日でもなかなか話題にしにくいジャンルですよね。でも、インド哲学(宗教)は、きちんと考えています。 性の宗教学に関して、数回に分けて書いてみたいと思います。
今回はその第1目として、背景となる基礎知識を紹介します。

まじめに語ります

前述のようにインドや中国(道教)では、性に関する研究はまじめに行われています。逆に言えばエイブラハムの宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は性に関してかなり慎重で、研究すらしていないと言えます。
非常に乱暴な言い方をすれば、西洋の性に関する考え方は、童貞僧侶によるヒステリックな妄想に近いと思えます。性の話題に関しては耳をふさいで何もしない、という態度なのです。女性の性欲は悪魔の仕業とすら言い出すのですから、困ったものです。 だから、性に関する考察は、西洋文化を参考にしては駄目だと思っています。

性に関しては、おおらかであることがスタンダード

世界中の古代宗教は、性に関しておおらかです。
性器を祭る宗教が世界各地にたくさんあります。

人間の人生において、大地から植物が育ち、それを食べて生きていき事の神秘性(豊穣)と、女性が子供を産む神秘性は、他のどんな出来事よりも神聖なものとして考えるというのは、当然のことだといえます。 それゆえ、性に関することが宗教になるということは自然です。

ただし、政治と性は親和性が悪いようです。性的儀式を国家行事にしている国はありません。
それらを分析すると、性は精神性(宗教の教義)には親和性があるが、組織運営(政治や教会)には嫌がられる側面がある、ということです。

聖書(エイブラハム)の宗教は進化の結果

エイブラハムの宗教(つまり聖書を使う宗教)は、後発の宗教です。ローマ帝国などの覇権国家が広まる時に、地元の宗教を駆逐するか、上手に取り入れることによって、地場の宗教の書き換えをしています。 つまり、古い土着宗教は滅び、新しい(正しい)エイブラハムの宗教が残ったということになっています。

それゆえ、西洋文化というかヨーロッパ文化の中では、古い宗教は駄目で、書き換えた新しい宗教が先進的で素晴らしいと、無意識に考えているようです。ここには進化論も混じっていて、悪いものは滅び良いものが残る、という発想が根強くあります。 つまり、性を根幹にした宗教は駄目だから排除され、性をタブー視する新しい宗教こそが正しい、と思うわけです。

正しい性の宗教学とは

ここまで考えてくると、西洋的な価値観から離れない限り、性に関して冷静に考えることができないことが分かります。
日本人は明治維新以降、いわゆる西洋かぶれで、多くの価値観が西洋風に書き換えられています。
性に関して論じるにも、そこは大きな壁になっています。

そこで、次回は、性に関する歴史的な流れを紹介したいと思います。

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