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インド哲学を学ぶ事は瞑想と同じ

インド哲学を勉強すると、魂と心を分離する事が出来るようになり、肉体をそのコントロール下に置く事ができる。

学ぶ瞑想で悩みの苦痛が減る

無意識に心の苦痛が魂から切り離されるので、ストレスがあっても気分は悪くならない。ただし、肉体的なストレスは消えた訳ではないので、養生は必要だ。ギーターにも、学ぶ事はヨーガであり瞑想だと書かれている。特別な姿勢や座り方が瞑想なのではなく、どこへ進むのかが瞑想である。ギーターより

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いつも何か足りないと思う心

この世に生きている限り、心は落ち着きを持ちませんね。
何もないのに、そわそわしたり、不安だったり。

痴呆が進む僕のお袋も、どうして自分が不安なのか分からず、目に入るもの全てを疑い確認しようとします。しかし、目の前の不安を解消しても、根本的な不安は消えないので、何時までも不安探しをしているのです。それがお袋を常に苦しめています。地獄の中にいるように見えます。

本当に足りない訳ではない

インド哲学では、人の心は、常に何か足りない、と思わせるといいます。
それは常に静止できない肉体から生じるのが心であり、だから心は揺れ動くのだと言います。その揺れの中から、不足している、という心が生じるのだそうです。

足りないと思う心をカルターと呼びます

不足感は肉体が魂を騙そうとしているようなものだそうです。しかし、それは本当のことではないのです。お袋もそうです。何度も診察券はどこ? と確認をします。確認を幾度やっても安心できません。なぜなら、診察券が見当たらないことが不安なのではなく、不安だから不安だ、ということなのです。不安が先にあり、その原因を後から探しているのです。その最初にある不安(足りないと思う心)には原因がなく、無限に続いています。
カルターですね。

そういうときこそ、心に瞑想を与えてあげたいと思います。
でも、痴呆症の老人に瞑想を与えるにはどうしたらいいでしょうか?
誰か、教えてください。ああ、これもカルターですかね?

『肉体をコントロールし、惑わされない』=今日の瞑想の目標です。

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言葉は通じないもの

なぜ、喧嘩や聞き違いや勘違いが起こるのでしょうか。

「それは聞いていない」
「そんな事は言っていない」

 言葉というものが、実はそれほど大きな力を持っていないことに、物書きをしていて気付くことがあります。もちろん、ロマン主義的には「言霊」といって人の心の中心に言葉ありき、というような印象がありますが、どうでしょうか。
 そもそも、裏切られた、というのは、言葉が原因ではないかと思うことがあります。
 もし、言葉がそれほど確かであれば、本当は間違いや勘違いが生まれないのではないのでしょうか。

インド哲学では言葉は全てを表せないと説く

 ギーターやウパニシャッドを読んで、最初にインパクトを受けたのは、たとえば目に見えるものを全て言葉にすることはできない、という当たり前のことでした。ゆえに、言葉を信じるなと、言葉にしようとするなと、説明しようとするなと。
 正しいことは、全て自分の内側にあり、それを感じ取る事が必要なのであって、外側にあるものを探しても意味がない。ましてや、言葉を練って探しても無駄だと。

五感を静めなければ分からない

 人は五感を通したもので世の中を計ろうとします。五感に感じられないものは存在しないと考えるのです。ですから、魂の存在も確信が持てないし、運命というものの存在も確信が持てません。それゆえ、悩んだり悔しがったりするのだそうです。
 どうしたら、自分の役割や運命が見えるのでしょうか?

 瞑想は、そういった五感から生じる迷いを消し去る方法だそうです。具体的にはギーターの学習も瞑想であるし、スポーツに没頭することも瞑想であるし、座り続けることも瞑想だそうです。逆に、瞑想はこうでなければならない、という人は偽物だと、ギーターにもヨーガ・スートラにもウパニシャッドにも書かれています。いつの世にも、瞑想を指導する人が現れますが、注意が必要だと2000年前から言われています。

夢中になることだけが真実

 どの書物にも共通しているのが、真理を得るに何かをせよということではなく、無心で何かを行うことだとされています。つまり集中することが、最も重要だそうです。

 スポーツ選手も芸術家も、みな集中の達人です。そこに真理がありそうです。

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