瞑想の混乱

瞑想(マインドフルネス)が世界中で流行っていますね。
しかし、一言で瞑想と言っても様々な流派があって、しかも、自分でやっていても何が正解なのかも分からないかもしれません。
実際に、ネットを調べると「**瞑想法」というようなものがたくさん出てきます。どれが正しいのでしょうか?
高い会費を支払わなければならない所もあったり、インドの何とか協会の資格を持っているとか、隊で修行してきたとか。

瞑想=仏教ではない

仏陀(シッダールタ、釈迦)がどうやって修行したかは分かっています。あらゆる苦行を経てから、木の下で座って瞑想によって解脱したとされています。

ということは!

仏陀が仏教を開く前から瞑想があって、みんな瞑想をしていたということです。仏陀が瞑想を開発したわけではないのです。
仏陀が仏教を開いたのは紀元前1000年くらい(諸説あり)で、その前のジャイナ教やバラモン教には瞑想が修行方法として存在していたというのが文献に残っているのです。

要するに、歴史をたどれば、瞑想=仏教ではなく、瞑想=「インド周辺の宗教や哲学」(=ヒンドゥー教)の定番の修行法(というか悟るための手法)となります。

どの瞑想法がいいのか、では間違う!

ヨーガスートラやマハーバーラタ(バガヴァッド・ギーター)などのインド哲学の基本となる古典を読むと、瞑想に関しては明確な方法論が書かれている。

1:組織を作ったり、お金を取って教える瞑想方法は間違っている。
2:自分一人で学ぶことは難しく、師(グル)となる者を見つけなければならない。
3:ただし、師がなくとも、時間がかかるが届く(マスターできる)。
4:芸術やスポーツも、やり方によっては瞑想と同じだ。
5:学問を突き詰めるのも瞑想だ。
6:健康や美容のための体操(体操ヨーガ)は瞑想ではない。
7:瞑想によって健康になったり仕事が成功することはない(目的が違う)。
8:睡眠と覚醒の中に瞑想のヒントがある。

1の解説

まず1です。
「組織を作って人を集めることは瞑想ではない」とヨーガスートラには一番初めに書かれています。
「お金を取るのも瞑想ではない」と書かれています。
しかし、例外があって、教える師が生活するに必要なお布施は許されています。つまり、仏教でお坊さんが托鉢をして回りますが、あれは歩きながらの正しい瞑想なのです。人は、自分の体や家族を養うための最低限の経済活動(=仕事)をするべきだとインド哲学では説かれています。それ以上の活動は、実は瞑想を妨げる主な要因なのです。

これは古代インド哲学(=仏教思想)の根本です。瞑想の目的は肉体的な制約から魂を解き放つことにあり、瞑想を通して魂を主役にして肉体に必要なことを脇役にすることです。 仏教用語で言えば、煩悩を捨てる、ということです。
組織を作って人を集めたりお金を集めるのは煩悩そのものです。煩悩のための瞑想など、あり得ないのです。

2の解説

聖典には、「(正しく)瞑想するには師が必要だ」と書かれています。瞑想すること自体が言葉で説明しにくいことであり、自分一人で正しい瞑想を見つけるのが難しいと書かれています。

みなさんも、何が瞑想なのか分からないでしょう。
瞑想とは何かということを解説し始めると、古代インド哲学書(聖典)をそのまま書き写すことになっていまします。そこで、キーワードだけ並べてみます。

・この世は、魂と物質の異なる2つのもので出来ている。
・人間は、魂のまわりに物質が集まって出来ている。
・集まった物質を「肉体」という。
・魂には五感がないので、肉体に備わっている五感を利用して世の中を見聞きしている。
・肉体(五感)は、常に嘘をついて、肉体的に楽なこと楽しいことをさせるように魂を誘導している。
・何が楽しいとか楽とかいうのは、個々の肉体によってまちまちだ。
・例えば食の好き嫌いは、肉体が魂を騙して起こる。本当は美味しい野菜でも、人によっては不味く感じるのは、その人の肉体が魂を騙した結果だ。 ・魂が強い人は、食の好き嫌いがない。なぜなら、肉体に騙されないからだ。
・魂が強い人は、人の好き嫌いがない。なぜなら、肉体に騙されないからだ。
・つまり、好き嫌いは肉体に属することで、魂にはものの好き嫌いがない。
・その肉体の支配から抜け出すことを「解脱」という。

*肉体の支配に気付く方法が「瞑想」だ。
*肉体の支配を弱める方法が「瞑想」だ。
*肉体の支配から抜け出す方法が「瞑想」だ。

ここであらためて、師について考えてみます。
上記のようなことが瞑想であり、瞑想の目的です。
「*」の肉体の支配に気付くためには、自分を客観的に見る姿勢が必要になります。そのためには、自分でない人に見てもらうのが近道です。つまり、師とは、生徒がどのように肉体に支配されて(どれくらい気付いているか)、どのくらい肉体をコントロールできているか(支配を弱められるか)、そして、どのくらい抜け出しているかを判断できる人のことです。 言い換えると、「*」の3つの段階を経験している人です。

1を思い出してみましょう。「*」の3つを習得している人は、瞑想を教えたがるでしょうか。組織(=肉体のあつまり)を作りたがるでしょうか。肉体が欲しがる「お金」に執着するでしょうか。

3~5の解説

上記の瞑想の目的が分かると、おのずと3~6は理解できるはずです。「*」の3つを実現するには、実は師がなくとも達成できます。仏陀は座って35年かかったと言われています。最適な師がいれば、もっと短かったかもしれません。なぜ、師がいなくても大丈夫なのかというと、こう解説されています。つまり、誰の中にも魂があり、それを優先すること自体が瞑想(ヨーガ)なのだから、目的さえ分かっていれば必ず達成できる、つまり条件はそろっている、と書かれています。

芸術もスポーツも瞑想である、と書かれています。ただし、人に褒められるとか、相手に勝つという目的で行う芸術やスポーツは瞑想ではない、と書かれています。もう、この意味は分かりますよね。 では、どういった芸術活動やスポーツがいいのでしょうか? 古代の書物には「ただ、夢中で行うこと」と書かれています。夢中というのがキーワードです。

学問も同じで、名声や地位のための勉強ではなく、ただ夢中で学ぶことが重要だとされています。

6と7の解説

「健康や美容のための体操(体操ヨーガ)は瞑想ではない」
これも当たり前ですね。目的が違えば、行為が同じでも到達するものが違います。

さて、難しいのが7です。
「瞑想によって健康になったり仕事が成功することはない(目的が違う)」
もっと正確に言うと、「~をすれば~になる」ということは約束されていない(決まった未来はない)、とギーターの中で創造神クリシュナが語っています。
そもそも、瞑想の目的は肉体にないので、肉体(や生活)がこうなるという法則には従っていません。難しいですね。ここは神話(ギーター)の言葉をそのまま使えば、人間の行為の結果は、すべて偶然(紙が決める)ものであって、過去に起きたことが未来にも起こることは約束されていない、ということです。

まぁ、インド哲学を勉強するのは、他に任せるとして、いずれにせよ、肉体を主役にした考え方をしているようでは瞑想にはならない、ということです。

8(夢)の解説

さて、最後の8は、夢の中に瞑想のヒントがあるということです。どういうことでしょうか。
実は、夢というのが現在の科学でも十分に解明されておらず、でも、古代インド哲学では非常に研究されています。

夢を見ている時に、これは夢なんだ、と気付く自分がいます。
古代インドでは、この「気付く自分」こそが魂なのだ、と結論づけています。夢は肉体である記憶の座(=脳の記憶する部位)の活動であって、五感と同じく肉体の嘘でできています。夢は過去の記憶や未来の記憶(古代インド哲学では過去も未来も連続している)を肉体が魂に見せている、と考えています。その肉体の仕業(夢)に気付く意識が、肉体ではないものです。

瞑想とは何か

瞑想の中でも、夢を気付くのと同じ体験が出来ます。
瞑想をしていると、ふと考え事に支配されてしまいます。これは夢と同じです。しかし、瞑想中に「しまった、考え事をしてしまった」と気付く自分がいます。これが魂です。
もっと瞑想が上達すると「考え事をしてしまった」という頭の中の言葉ではなく、気付く自分が見い出せます。実は、言葉というのも肉体が作ったものなのです。言葉を使わないということは、肉体を使わない、つまり、魂が主役になるということです。

瞑想とは、自分の中で肉体発の様々な現象(考え事や脚のしびれなど)から、本当の自分(魂)を切り離す手法です。

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