マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』は、殺人・拷問・セックス・乱行・糞尿・幼児セックス・キリスト教会の大否定など、とにかく快楽を追求し続けるジュリエットという娘の物語だ。
彼女の行いや出会う人間たちの行動や哲学は、どうも『秘密集会タントラ』に酷似する部分が非常に多い。
セックス仏教の思想はフランスに届いていたのか?
『秘密集会タントラ』は、かつての古代インドのセックス仏教の繁栄の後、イスラムの侵攻でチベットへ逃亡したセックス仏教の中で出来上がった、セックスこそが涅槃に至る道、幸福への最短距離、しかも、乱行、近親相姦、不倫、糞尿を用いるセックスなどを大々的に推奨しており、それを菩薩などのいわゆる神様たちが行なっているという内容だ。
マルキ・ド・サドがセックす仏教という意味でのタントラを知っていたかは不明だが、内容の酷似性は注目に値する。
タントラ思想が確立したのは西暦1000年程度で、(セックス教として弾圧されて)チベットへ仏教が逃亡したのがそのすぐ後である。
サドの時代は1780年前後に「肛門セックス」で有罪になってバスチーユに投獄、その後精神病院に入れられているときに様々な文学を書いている。
時代的にはタントラ思想に触れることは可能だが、キリスト教のもとでは、書物として『秘密集会タントラ』などが手に入ったかどうかはわからない。
人間の本質を深く思考するとセックスだけになる
せっくす仏教と佐渡が隔絶されていたとしても、同じ思想にたどり着いている点は注目に値する。人間の本質を分析すると、ここにたどり着くと考えてもいいのかもしれない。
人を拷問しながら、殺しながらのセックスほど素晴らしいものはない、というのが悪徳の栄えの中心テーマになっているのだが、それを実現するにあたって『権力』とは何か、『法律・ルール』とは何かを常に読者に投げかけてくる。そして、一般庶民とはどういう人間なのかを痛烈に批判・貶めている。さらに、権力者の腐敗がなぜ起こるのか、それも見事に書き込まれている。
殺人・犯罪は別にして、セックスの本質が見えてくる
人間はどうあるべきか、というテーマに対するアンチテーゼが『悪徳の栄え』とも読める一方で、自然の一部である人間の存在を前面に押し出しているのがこの本なのだが、西洋文化、特にキリスト教の『人間こそが自然の支配者』という考え方を完全に否定し、自然の一部である人間は、どう生きるべきかということを読者にどんどん投げてくる。
そして、幸せはセックス以外にはありえない、という結論をどんどん強固なものにしてくれている。
タントラを学びつつ、この『悪徳の栄え』を細かく読むと、いろいろなものが見えてくる気がしている。