「ヨガ・ヨーガ」カテゴリーアーカイブ

変わりゆくもの

世の中は、変わりゆくものと、変わらぬものがあるといいます。
知性とは、変わりゆくものの中で変わらぬものを見つける能力のことだそうです。

自分は変わらぬもの

季節や他人の心は、常に移ろい変わるものです。1つのところに留まりません。
つまり、見方を変えれば、自分の心も他人から見れば常に変化して見えているのです。
しかし、自分では常に同じ自分であり、成長はあっても、それほど変化する訳ではないように感じている。

自分の変化を見つめる瞑想

自分がどれだけ不安定なものなのか、それを見つめる心は知性です。自分の不安定さを見つけるのは、自分の中の止まっている部分から自分を見つめる必要があります。

たとえば、怒っている自分を見つめる冷静な自分。
たとえば、笑っている自分を見つめる冷静な自分。
たとえば、悲しんでいる自分を見つめる冷静な自分。

そのような「見つめる自分」を持つことが知性です。

夢の中で夢だと気付く自分

夢の中でふと、これは夢なのだ、と気付く自分がいます。
楽しい夢の中ではちょっと興醒めですね。
でも、怖い夢の中では自分を救ってくれる存在です。

このように分析すると、自分だと思っているものが2種類あることに気付きませんか?
欲しいものを追い求めて一喜一憂する自分と、それを冷静に見つめる自分。
さて、どちらが本当の自分でしょうか?

冷静な自分を作る瞑想

瞑想がどんなものかということを答えるのは、非常に難しいとされています。人によって言い方が異なります。
座禅の格好で心を空にすれば、それが瞑想だと言う人もいます。
ヨガのポーズで体を静止すれば、それが瞑想だと言う人もいます。

ギーターやヨーガ・スートラでは、止まった自分を見つけるのが瞑想だと語られています。
止まった自分(冷静な自分)は、常に自分の中にあります。しかし、それが顔を出す時はどんな時でしょうか?

そういう意識で瞑想をしてみましょう。
心を落ち着け、軽く目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返します。
心に何か浮かべば、そんな自分を見つめる自分の存在を意識します。
心は常に落ち着かないはずです。しかし、落ち着いていないことを自分で気付けば、それが瞑想なのだそうです。

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出会いと引き寄せ

会うべき人に会える、出会うべき人と出会う、そんな引き寄せがあります。
実は、今日、母校で開催された心理学の勉強会に、たまたま誘われて出席しました。
心理学には興味があったものの、友人は都合で欠席、直接仕事に関係するわけではないし、かなり専門的なテーマなので出なくても良いかとも思いましたが、誰一人知り合いのいない勉強会に一人で参加したのです。

引き寄せ効果、びっくりする出会いが!

勉強会の内容は、自分で想像していたものよりも、自分の仕事に関係が深く、非常に勉強になりました。

しかし、それが良い出会いである事は事実なのですが、いえいえ、それ以外にビックリすることがありました。勉強会が終わり、そのまま懇親会が行われました。いわゆる、同じ心理学科卒業の皆さんが集まる会だったので、同窓生が殆ど、だから飲む飲む!
途中、半分くらいがお帰りになるも、僕は何となく、風を感じて苦手なお酒にお付き合い。

引き寄せで、なんと小学校の先輩が!

話が出身地の話題になると、「あら、**さんも市原市だったわよ」と同郷の人がいるみたい。
その人は別のテーブルで歓談中。
残る人数がかなり減ったところで、テーブルが1つに。
そこで、先ほどの方と話すと、なんとなんと!

小学校の1つに上の先輩で、中学も一緒、高校も一緒、大学も一緒! 確かにお顔に見覚えがあります。

今住んでいる街も一緒、歩いて数分。いやぁ、こんなことってあるんですね。
なんとなく風を感じて、最後まで残っていて、いやぁ、面白いですね。

引き寄せは、理屈じゃありません

こういった引き寄せは、実は、僕には日常茶飯事です。
僕を知っている人は、人脈製造機、人脈HUBと言います。
必要な人に会える確率は、9割を超えると思います。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。
端的に言えば、一瞬の瞑想の力です。
瞬間的な瞑想状態の中で、何かを感じているのです。
それは五感では察知できない風のようなものです。

「今日僕は、心理学の勉強会に行きたいの?」
と、その瞬間の瞑想の中で問いかけます。
普通、自問自答というのは、損得だとか体調だとか、行くべきかどうかだとか、現世的なしがらみを基準に判断しますね。
ところが、瞑想の中での問いかけは、心の奥底の言葉にならないものとの対話です。
明確な言葉で答えが返ってくるわけではありません。

そう、風を感じる、という雰囲気です。

一瞬の瞑想、ぜひ、お試しください。一瞬、頭を空っぽにするだけです。痴呆のようなボケた感じだと思います。
何か起きると思います。

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瞑想の目的と手段

瞑想の目的と手段について原書を開いてみます。

バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナ(創造神)は語ります。
「美容・健康体操は、それ自体はヨーガではないし、瞑想でもない」
ヨーガ・スートラの中でパタンジャリ(著者)は語ります。
「美容・健康体操は、それ自体はヨーガではないし、瞑想でもない」

古代のインド哲学では、このようにヨーガと体操を分けて考えています。しかし、今行われているヨガを否定するわけではありません。 ヨーガとは「真理へ向かう方法」という意味で、様々な形態があるとされています。
たとえば、勉強のヨーガ、思考のヨーガ、体操のヨーガ、スポーツのヨーガ、戦いのヨーガというようなものです。

ゴールは真理を理解すること

つまり、ゴールであるこの世の真理を理解する方法をヨーガといいます。その中に、いろいろな種類があるということです。
ただ、数多くあるヨーガの中でも「瞑想」が重要で、もっとも近道であるとされています。

瞑想を手に入れるには

もう少し具体的に言えば、正しい瞑想を手に入れるために、そのほかの多くのヨーガがあるということになります。
ですから、美容・健康にいいヨガ(体操)も、より良き瞑想に入るための1つの手段です。
座禅も、より良き瞑想に入るための手段です。
スポーツや芸術も瞑想に近づきます。

瞑想は肉体から離れるということ

どの書物でも、瞑想は肉体と精神を切り離す作業だと説かれています。
「ヨガ(健康体操)が瞑想ではない」という意味は、瞑想が完成すると肉体が精神から切り離されるわけですから、体操(ヨガ)自体が意味を持たなくなります。 それゆえ、健康や美容に目を奪われているうちは瞑想には届きません。瞑想に届かないのですから、ヨガ(体操)自体の健康・美容効果も薄くなります。 まさに、禅問答ですね。
このように、考えること自体がヨーガであり、瞑想に近づいているということを意識しましょう。

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体の動きを制御する瞑想

瞑想には色々なやり方があります。聖典と呼ばれるヨーガ・スートラやバガヴァッド・ギーターにも瞑想方法が書かれています。

体の支配から脱するのが瞑想

千葉県香取市に、スリランカ仏教のランカ寺があります。ここの高僧パンニャラーマさんに習った瞑想方法を紹介します。

歩く瞑想です。

人間は何も考えることなく歩いています。考えないというのは、反射的に足を出しているという意味です。どのくらい足を曲げるとか、どれだけ踵を前に出すなどを考えなくても歩けるという意味です。一つ一つの動作を自分で考えながら歩くのが、歩く瞑想です。右足を上げるぞ、踵を前に出すぞ、足を地面に着くぞ、体重を載せるぞ、というように、自分の体を自分の心が制御すると、それが瞑想になります。

心で体を制御せよ

瞑想の目的は迷わない心を作ることです。迷いは体からの刺激(五感)で生じます。美味しい物を見れば食べたくなる、お金を見れば欲しくなる、贅沢な生活を見れば自分もそうしたくなる。全て五感の刺激に心が揺れる結果です。この状態を体が心を支配するといいます。その状態では、常に心がかき乱され、不安になります。それを乗り越えるのが瞑想の目的です。歩きましょう。

性に関する瞑想・哲学

瞑想と性の関連は、古代インドにおいても重要なテーマだったようです。
古代インド仏教は、ヒンズー教の台頭に対抗するために、性の秘儀を競技に取り入れました。
インドにセックス寺院があるのは、このためです。

セックスが最高の瞑想だとする教義がある

セックス仏教によりインドでの古代仏教の勢力は保たれることになりますが、風紀の乱れから、インド仏教はインドから追放され、チベット仏教となります。

日本の仏教の主流は、このチベット仏教の流れを受け継いでいるので、実は理趣経などにセックス教義が秘儀として書かれています。
その中では、セックスこそが最高の瞑想であり、涅槃へ通じるとされています。

ただし、正しく行わなければ地獄へ落ちるとされており、確かに、風紀を乱し、男女関係を危うくする要素もはらんでいます。

タントラにも同じ教義がある

タントラとは、ヒンズー教の一派で、性を教義とする宗派です。間違えてはいけないのはセックスを目的としているのではなく、幸せを通級する形の中に性があるということになります。イベっと仏教は、このタントラを取り入れているのです。

いずれにせよ、究極の瞑想は、女性の性の喜びと同じだと説かれています。
ただし、肉欲ではない、性の本当の価値を見出してこその秘儀。
このブログでも、検討課題の1つにしておきましょう。

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言葉は通じないもの

なぜ、喧嘩や聞き違いや勘違いが起こるのでしょうか。

「それは聞いていない」
「そんな事は言っていない」

 言葉というものが、実はそれほど大きな力を持っていないことに、物書きをしていて気付くことがあります。もちろん、ロマン主義的には「言霊」といって人の心の中心に言葉ありき、というような印象がありますが、どうでしょうか。
 そもそも、裏切られた、というのは、言葉が原因ではないかと思うことがあります。
 もし、言葉がそれほど確かであれば、本当は間違いや勘違いが生まれないのではないのでしょうか。

インド哲学では言葉は全てを表せないと説く

 ギーターやウパニシャッドを読んで、最初にインパクトを受けたのは、たとえば目に見えるものを全て言葉にすることはできない、という当たり前のことでした。ゆえに、言葉を信じるなと、言葉にしようとするなと、説明しようとするなと。
 正しいことは、全て自分の内側にあり、それを感じ取る事が必要なのであって、外側にあるものを探しても意味がない。ましてや、言葉を練って探しても無駄だと。

五感を静めなければ分からない

 人は五感を通したもので世の中を計ろうとします。五感に感じられないものは存在しないと考えるのです。ですから、魂の存在も確信が持てないし、運命というものの存在も確信が持てません。それゆえ、悩んだり悔しがったりするのだそうです。
 どうしたら、自分の役割や運命が見えるのでしょうか?

 瞑想は、そういった五感から生じる迷いを消し去る方法だそうです。具体的にはギーターの学習も瞑想であるし、スポーツに没頭することも瞑想であるし、座り続けることも瞑想だそうです。逆に、瞑想はこうでなければならない、という人は偽物だと、ギーターにもヨーガ・スートラにもウパニシャッドにも書かれています。いつの世にも、瞑想を指導する人が現れますが、注意が必要だと2000年前から言われています。

夢中になることだけが真実

 どの書物にも共通しているのが、真理を得るに何かをせよということではなく、無心で何かを行うことだとされています。つまり集中することが、最も重要だそうです。

 スポーツ選手も芸術家も、みな集中の達人です。そこに真理がありそうです。

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