「瞑想」タグアーカイブ

瞑想の目指すもの

瞑想とは何だろと、これまでインド哲学や仏教の高僧による瞑想会んどで勉強してきたことをまとめてみたい。

魂と肉体の分離

1:この世に生まれるということは、魂に肉体が与えられるということ。
2:肉体に魂が宿るのではなく、まず魂があって、そこに物質である肉体が作られるということだ。
3:魂が主役であるということを認識するのが瞑想の役割である。
4:しかし、この世という物質の中では、同族である(物質)の肉体の方が主役になりがちである。
5:それゆえ、瞑想をしていても、すぐに物質世界へ引き戻されてしまう。肉体がそう働くのだ。
6:肉体は、五感を持っている。
7:魂には感覚器官がない。
8:すべての出来事は、肉体を通して魂に認識される。
9:肉体は、それを維持したり守ったりするために認識をねじ曲げて魂に伝えがちである。
10:魂は常に騙されている状態だ。
11:魂が間違ったものの見方に囚われているので、人は思い悩むのだ。
12:そうした肉体の奴隷にならないためには、魂と肉体を分離する必要がある。
13:それが瞑想だ。
14:瞑想は、魂が肉体を支配した状態ともいえる。
15:間違った認識が起こらないように、肉体から来る刺激(五感)を正しく認識する技とも言える。

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魂と肉体の関係

古代インドでは、肉体は魂を乗せる入れ物であり、例えるなら肉体は馬車で、意識が御者、そして魂が馬車の主人だと説明しています。

魂は御者である意識をコントロールして、意識が馬を操ります。
しかし、馬は見えるもの聞こえるもの臭う物に気を取られ勝手に走ろうとします。御者である意識がきちんとしていれば道を逸れることはありませんが、意識もまた、主人である魂の望みとは関係なく進みやすい道を選びがちです。
主人である魂が乗る馬車には窓もなく、何も見えません。ただ、御者である意識から景気や状況を教えてもらうだけです。

勝手に走る馬車と勝手な御者

人生が混乱するのは、勝手に走る馬車と身勝手な御者のせいだとインドの賢者は説明します。
魂がしっかりと意識をコントロールし、肉体を動かすことが重要です。
そのための訓練が『瞑想』です。

 

般若心経の意味

タイの高僧チャーンチャイ長老にお会いして、あらためて般若心経を読経しました。勉強し直すつもりで、様々な解説を読み直しました。

サンスクリット語も少しは読めるので、その意味と、さらに古代インド哲学の考え方で般若心経を読み直すことにしたわけです。

このサイトが凄すぎる

それで見つけたのがこのサイトです。
非常に素晴らしい。
書いたのは佐藤隆定僧侶(禅・曹洞宗)
インド哲学の真髄をそのままに、仏教の境地をきちんと反映させてあります。びっくり。
ほとんどの般若心経の読み方は、単に漢語を日本語に訳しているだけなので、誤訳がたくさんあります。「色即是空」の訳がまったく間違っているものばかりです。

でも、上記のサイトの佐藤僧侶の訳は、おそらく僕の知識の上では完璧に近いと思います。

著書が出ているので、早速購入しました。読み込みます。

般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経
(まか、はんにゃはらみったしんぎょう)

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時
(かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
照見五蘊皆空、度一切苦厄。
(しょうけんごうんかいくう、どいっさいくやく)

舎利子。
(しゃりし)
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識、亦復如是。
(しきふいくう、くうふういしき、しきそくぜくう、くうそくぜしき、じゅそうぎょうしき、やくぶにょぜ)

舎利子、是諸法空相。
(しゃりし、ぜしょほうくうそう)
不生不滅、不垢不浄、不増不減。
(ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん)
是故空中、無色、無受想行識。
(ぜこくうちゅう、むしき、むじゅうそうぎょうしき)
無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
(むげんにびぜっしんに、むしきしょうこうみそくほう)
無眼界、乃至無意識界。
(むげんかいないしむいしきかい)
無無明・亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽。
(むむみょう、やくむむみょうじん、ないしむろうし、やくむろうしじん)
無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故。
(むくしゅうめつどう、むちやくむとく、いむしょとくこ)

菩提薩埵、依般若波羅蜜多故。
(ぼだいさった、えはんにゃはらみったこ)
心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、
(しんむけいげ、むけいげこ、むうくふ)
遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
(おんりいっさいてんどうむそう、くぎょうねはん)

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、
(さんぜしょうぶつ、え はんにゃはたみった こ)
得阿耨多羅三藐三菩提。
(とく あのくたらさんみゃくさんぼだい)

故知、般若波羅蜜多、
(こち、はんにゃはらみった)
是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪。
(ぜだいじんしゅ、ぜだいみょうしゅ、ぜだいじょうしゅ、ぜむとうどうしゅ)
能除一切苦、真実不虚。
(のうじょいっさいく、しんぶつふこ)
故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰。
(こせつ はんにゃはらみった しゅ、そくせつしゅわつ)
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
(ぎゃてい ぎゃてい、はら ぎゃてい、はらそう ぎゃてい、ぼじそわか)

般若心経
(はんにゃしんぎょう)

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古代インドは平和で安定していた。

インドで、カーマスートラ(Kama Sutra)とタントラ(Tantra)が活用されていた時代は、西暦400年〜西暦1200年(もしくは1000年)です。
同じ時代に、ヨーガ(Yoga)も生まれ発展しました。

男女の性に関しても、タブー視することなく、むしろ、人間関係をより良く発展させるために研究され、さらに、男女の性は宗教的な価値を持っていました。

カトリック教会が発展し、インド性文化が崩壊した

インドで、性が解放されていた時代は600年以上続きます。
それが終焉を迎えたのは、ローマ・カトリック教会が誕生した頃になります。西暦1000年頃です。トルコではセルジューク朝(Büyük Selçuklu Devleti)が西暦1200年くらいに成立します。
ローマとトルコは常に対立し戦争を繰り返していました。
その対立が、インドへも広がる形で、タントラ(Tantra)をベースにした仏教は破壊されてしまいました。

カトリック教会とイスラム教が世界へ広がると共に、タントラは邪教と考えられてしまい、隠されてきました。
しかし、タントラが盛んだった時代は600年以上も続いていました。大きな戦いもなく、平和だったと言えるかもしれません。

だからこそ、タントラの哲学、タントラの価値観、タントラの技法を復活させる必要があると思うのです。

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2000年前の偉大なインド文化を愛する

古代インドの知恵は、本当に素晴らしい。
2000年前に、すでに完成されていた。
きっと今のインドにも、それが受け継がれていると思う。

インドの価値は、西暦1200年から1900年代までは、ヨーロッパの価値観によって否定されてきたが、これからの正解平和にはインドの価値観が必要だと思う。

性に関する考え方は、宗教によって色々な違いがあるのだが、インドの性文化の自由さと素晴らしさを確認した方がいい。

幸いなことに、日本は、インドの哲学から生まれた仏教の国だ。
それゆえ、インドの価値観がよく分かる。性文化に関してもよく分かる。

日本は、世界でも稀に見る性に関して開放的な国だと思う。それはインド文化に影響されているからかもしれない。

インドの性文化の中にいれば、争うことなく、常に幸せを感じる事ができる。

見ることは偏見から始まる。

まず、どこを見ますか?
花ですか?
花弁ですか?
若葉ですか?

しかし、枝も幹も、桜です。
そして地中の根も、桜です。

そして、香りは桜ですか?
食べた時の味は桜ですか?
幹に触れた時、それは桜ですか?
風に揺れる音は桜ですか?

目に見えるもの、そして見てしまうものは、桜の一面でしかありません。
しかも、目は勝手に見る対象を選びます。

意識が目をコントロールしないと、見えないものがあります。
意識が手をコントロールしないと、触れないものがあります。
意識が耳をコントロールしないと、聞こえないものがあります。
意識が舌をコントロールしないと、味わえない風味があります。
意識が鼻をコントロールしないと、嗅げない匂いがあります。

意識を強くしないと、全体はわかりません。
でも、心は桜をすでに確信しています。
確信した心は、どんな桜か見極めようとします。
その時、5つの感覚は、俺は見ていない、聞いていない、触れていない、聞いていない、嗅いでいないとは言ってくれません。

心もまた、勝手に見るものを勝手に選んでいます。
「桜はこんな色」
意識が心をコントロールしないとどうなるでしょうか?

瞑想とは、全てを見るということです。

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タントラの考え方でカーマ・スートラを実行すると喜びの涙が止まりません

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タントラの考え方でヨーガ・スートラを実行するとは?

この世で最も美しく、もっとも心地よく、幸福で、ちょっと怖いけど、ここに居ればもう旅行も贅沢もお金も地位も必要ない、全てが手に入っていると思える場所があります。これを仏教では極楽浄土とか涅槃だとか、キリスト教では神の国などと、いろいろ表現されています。

みなさんはそれを見たことがありますか?

それが見えると、感謝の心に包まれ、喜びの涙が溢れて止まりません。
それは大昔から、多くの人が探し求め、修行を積み、やっと到達できるものだと思われて来ました。ところが、古代インド、つまり西暦400年から1000年過ぎくらいまでのインドでは、誰でもその世界を見ることが出来ていたようです。しかし、西暦1000年頃はローマ・カトリックが成立した時期であり、世界は混乱の中に落ちて行くころ、インドの素晴らしい生活も姿を消すこととなります。

しかし、インドのタントラの知恵は仏教の中に隠され、今日でも生きています。
でも、どうやって見るかという方法は、偏見や誤解の中に埋もれています。

虹の宇宙、真っ白い世界、自分が溶けてゆく

性の正しい認識と技術があれば、素晴らしい世界を見ることができます。その中で生き続けるには仏教やヨガの極致が必要ですが、見て体験することは誰でも可能です。

友人の祈祷師びびこちゃんは、そんな体験が有ると言います。びびこがそこで見た景色と、僕が体験した景色は同じでした。

びびこは祈祷師(占い師)なので、彼(彼女?)の能力を使って、その世界へ入れたのだろうと思います。
一方の僕は、古代インド哲学とカーマスートラの実践の中で、同じものを見ました。

僕もびびこも、虹の波が広がる宇宙が見え、その中に自分が溶け込んでいくイメージです。
また、僕は壮大な銀河が見えることもあります。無限の宇宙が迫って来て、その中に自分が溶け込みます。その中で言葉にできない幸福感と、生命への感謝の気持ち、エネルギー、活力、安らぎなどを得ることができました。

どうやればいいのか? 宇宙と自分の関係を理解する心の準備して、カーマスートラの技術の実践です。

『古代インド哲学』+『カーマスートラの実践』=『タントラ』

ネットにカーマスートラやタントラの情報は沢山あって、それぞれに解釈があり、みんな似たようで違うことを書いています。困りますね。
しかし、歴史をちゃんと調べると分かることがあります。それは、まず、古代インド哲学というのがあり、これには4種類ほどのバリエーションがあります。そのどの流れをくむかで多少の違いがあります。しかし、どれも世界の成り立ち、命とは何か、人生とは何かという考え方です。その古代インド哲学の完成の後にカーマ・スートラが偏差されます。生活の知恵としての「性のマナーと技術」を広大なインド中から集めて編纂したものがカーマ・スートラです。この2つを組み合わせたのがタントラだと思うと理解しやすいはずです。

ところが、ネットなどにあるタントラの情報は常に大切な部分が欠落していて、一体何をして良いのかが分からないのです。例えば「チャクラ」とはタントラの考え方です。もともとセックスの技法を観念的に言葉にしたというべきなのですが、いつの間にか超能力の宿る場所のようなイメージになっています。

どうすれば良いのか。まず、先入観、過去の知識、多くの人が言っていることを忘れて、正しいとか正しくないというどちらかに偏らない心をイメージします。
その中で、インド哲学の基本を学びます。それは簡単です。

  1. 肉体は魂を入れる乗物
  2. 個性の差は、入れ物の違い(男女の差も)
  3. 互いの魂は1つになるのが定め(相手と自分が1つになるのが定め)
  4. 肉体のわがままに惑わされない(好き嫌い、愛して欲しい、認めて欲しいなどは肉体の声)

このくらいを頭に置くことです。でも、愛は魂の問題じゃないの?と思う人が多いでしょう。
その答えは、タントラの実践の中で、後から分かります。

実践無くしては、何も得られないのです。

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